教皇ベネディクト十六世の 世界代表司教会議第13回通常総会閉会ミサ説教

年間第30主日の2012年10月28日(日)午前9時30分から、サンピエトロ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世司式の下、世界代表司教会議(シノドス)第13回通常総会閉会ミサが行われました。以下に訳出するのは、教皇がミサで行 […]


年間第30主日の2012年10月28日(日)午前9時30分から、サンピエトロ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世司式の下、世界代表司教会議(シノドス)第13回通常総会閉会ミサが行われました。以下に訳出するのは、教皇がミサで行った説教の全文です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟である司教の皆様
 ミサ参加者の皆様
 親愛なる兄弟姉妹の皆様

 盲人バルティマイのいやしの奇跡は、聖マルコによる福音書の構成の中で重要な位置を占めます。実際、この奇跡は、「エルサレムへの旅」と呼ばれる部分の最後に位置づけられます。「エルサレムへの旅」とは、イエスが過越祭のために聖なる町に向けて行った最後の巡礼です。イエスはこの過越祭の中で、ご自分の受難と死と復活が待ち受けていることをご存じでした。ヨルダン渓谷からエルサレムに上るために、イエスはエリコを通ります。そしてバルティマイと出会ったのは、エリコの町を出るとき、すなわち、福音書記者が述べるとおり、「イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき」(マルコ10・46)のことでした。この群衆は、すぐ後、イエスがエルサレムに入城する際、彼をメシアとして歓呼のうちに迎えることになります。バルティマイは道端に座って物乞いをしていました。福音書記者がいうとおり、バルティマイという名前は「ティマイの子」という意味です。マルコによる福音書全体は信仰の旅路です。この信仰の旅路は、イエスの学びやの中で少しずつ進行します。弟子たちはこの発見の歩みにおいて第一の役割を果たします。しかし、別の人々も重要な位置を占めています。バルティマイもその一人です。バルティマイのいやしは、イエスが受難の前に行った最後の奇跡的ないやしです。ところで、それが盲人、すなわち失明した人のいやしだったのは偶然ではありません。わたしたちは他のテキストからも、目が見えない状態が福音書の中で深い意味をもっていることを知っています。盲人は、神の光、すなわち信仰の光を必要とする人を代表します。それは、本当の意味で現実を知り、いのちの道を歩むためです。自分が目が見えず、光を必要としているのを知ることは不可欠です。そうでなければ、いつまでも目が見えないままにとどまるからです(ヨハネ9・39-41参照)。
 それゆえ、このマルコの物語の重要な部分において、バルティマイは模範として示されます。バルティマイは生まれつきの盲人ではなく、中途失明者です。彼は失明し、そのことを自覚していますが、希望を失いませんでした。彼はイエスと出会う機会を捕らえることを知っており、いやしてもらうためにイエスに身をゆだねます。実際、師であるかたが道を通られると聞いて、彼は叫びます。「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」(マルコ10・47)。そして彼はますます叫び続けます(48節)。イエスがバルティマイを呼び、何をしてほしいのかと尋ねると、彼はこたえます。「先生、目が見えるようになりたいのです」(51節)。バルティマイは、自分の苦しみを認め、いやしてもらえると信じて主に叫ぶ人の代表です。バルティマイの単純で切実な祈願は模範的です。それは「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18・13)という神殿における徴税人の願いと似ています。そして、実際にそれはキリスト教の祈りの伝統に受け入れられました。イエスとの出会いを信仰によって体験することにより、バルティマイは失っていた光を取り戻し、さらに光とともに自分の完全な尊厳を取り戻しました。彼は立ち上がって、再び歩み始めます。このときから、彼を導くのはイエスであり、彼の道はイエスが歩む道となります。福音書記者はバルティマイについてそれ以上何も述べませんが、バルティマイのうちに弟子とはいかなる者であるかを示してくれます。弟子とは、信仰の光をもって、「道を進まれる」(52節)イエスに従う人のことです。
 聖アウグスティヌス(Augustinus 354-430年)はある著作の中で、バルティマイという人について注目すべき考察を行っています。この考察は現代のわたしたちにとっても興味深く重要なものに思われます。ヒッポの聖なる司教アウグスティヌスは、この箇所でマルコが、いやされた人の名前だけでなく、その父親の名前も記していることを考察して、次の結論に達します。「ティマイの子バルティマイは裕福な身分から転落し、そのみじめな状態はすべての人に知られた周知の事実となっていた。彼は目が見えないだけでなく、道端に座って物乞いをしていたからである。だからマルコはこの男だけを思い起こそうとしたのである。奇跡によって目が見えるようになった評判は、失明して失った名声よりも大きかったからである」(『福音書記者の調和』:De consensu evangelistarum 2, 65, 125, PL 34, 1138)。聖アウグスティヌスはこう述べています。
 バルティマイが「裕福な」身分から転落した人だというこの解釈は、わたしたちに考えさせます。この解釈は次のことをわたしたちに顧みさせます。わたしたちの人生は貴重な富をもっていますが、わたしたちはそれを失う可能性があります。ここでわたしがいうのは物質的な富のことではありません。ここからわたしたちは、バルティマイとは、古くから福音宣教が行われながら、信仰の光が弱まり、神から遠ざかり、神が人生にとって大切だと考えなくなった地域に住む人々を指すと考えることができます。それゆえ彼らは、豊かな富を失い、自分の高い地位から「転落」してしまいました。この高い地位とは、経済的な地位や地上の権力のことではなく、キリスト教的な身分のことです。彼らは人生の確実かつ堅固な方向づけを失い、しばしば無意識のうちに、人生の意味を求める物乞いとなりました。彼らの多くは、新しい福音宣教を必要としています。神の子イエス・キリスト(マルコ1・1参照)との新たな出会いを必要としています。イエス・キリストこそが、彼らの目を新たに開き、道を教えてくださるからです。新しい福音宣教をテーマとするシノドス総会を閉会するにあたり、典礼がバルティマイに関する福音を示してくれたのは意義深いことです。この神のことばはわたしたちに特別な意味をもつことを述べています。わたしたちはこの数日間、キリストをあらためて告げ知らせる緊急の必要性に直面してきたからです。それも、信仰の光が弱まったところ、神の炎が、あらためてかき起こさなければならない残り火のようになってしまったところで。それは、この火が、すべての家を照らし温める、生きた炎となるためです。
 新しい福音宣教は教会の全生活にかかわります。それはまず、通常の司牧活動にかかわります。司牧活動は、霊の火によっていっそう導かれる必要があります。それは、定期的に共同体に参加し、主の日に集まって、みことばと永遠のいのちのパンで養われる信者の心を燃え立たせるためです。わたしはシノドスで示された3つの司牧的テーマを強調したいと思います。第一はキリスト教入信の秘跡です。洗礼、堅信、聖体を準備する際、適切な信仰教育が伴うべきことが再確認されました。神のあわれみの秘跡である、ゆるしの秘跡の重要性もあらためて強調されました。わたしたちは、この秘跡の歩みを通して、主がすべてのキリスト信者に呼びかける聖性への召命にこたえます。実際、新しい福音宣教の真の担い手は聖人であると、何度も繰り返し述べられました。聖人たちは、生活の模範と愛のわざにより、だれにでも分かることばで語るからです。
 第二に、新しい福音宣教は本質的に「諸民族への宣教」(missio ad gentes)と結びついています。教会の務めは、福音宣教です。イエス・キリストをまだ知らない人々に救いの知らせを告げることです。シノドスの考察の中で、アジア、アフリカ、オセアニアの多くの地域で、ときには完全に意識されないままに、人々が福音の最初の告知を深く待ち望んでいることが強調されました。それゆえ、聖霊が教会の中に新たな宣教の力を呼び覚ましてくださるように祈らなければなりません。宣教の担い手は、とくに司牧者と信徒です。グローバル化は著しい人々の移動を引き起こしました。それゆえ、古くから福音宣教が行われた国々でも最初の告知が必要です。すべての人にはイエス・キリストとその福音を知る権利があります。そしてこの権利に対応して、司祭も修道者も信徒も含めたすべてのキリスト信者には、福音を告げ知らせる責務があります。
 第三は、洗礼を受けながら洗礼の要求することを実行していない人々にかかわります。シノドスの議論の中で、こうした人があらゆる地域にいること、とくに世俗化した国々にいることが明らかにされました。教会は、こうした人々がイエス・キリストにあらためて出会い、信仰の喜びを再発見し、信者の共同体の中で宗教的実践を再開できるよう特別に気遣います。教会は、伝統的で永遠に有効な司牧的方法以外の新しい方法を採用することも追求します。そのため、世界の異なる文化に合った新しい言語にも配慮し、愛である神に根ざした、対話と友愛の態度をもってキリストの真理を示します。教会はすでに世界の諸地域で、教会から離れた人、あるいは人生の意味、幸福、つまるところ神を求めている人に近づくための、こうした創造的な司牧活動を開始しています。たとえば、いくつかの重要な都市宣教、「異邦人の中庭」、ヨーロッパ大陸宣教などです。よい羊飼いである主が、キリストとその福音から流れ出るこうした努力を豊かに祝福してくださることは間違いありません。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。イエスによって視力を回復したバルティマイは、弟子の群れに加わります。弟子の群れが、バルティマイと同じように、師であるかたにいやされた他の人々も加えなければならないのはいうまでもないことです。新しい福音宣教者とは次のような人々です。それは、イエス・キリストを通じて神のいやしを体験した人々です。このような人の特徴は、詩編作者とともに次のように叫ぶ、心の喜びです。「主はわたしたちに大いなるわざを行われた。わたしたちは喜んだ」(詩編1263〔フランシスコ会聖書研究所訳〕)。現代のわたしたちも、「人間のあがない主」(Redemptor hominis)であり、「諸民族の光」(Lumen gentium)である主イエスに向かって、喜びと感謝のうちに、アレクサンドレイアの聖クレメンス(Clemens 150頃-215年以前)の祈りを自分のものとしたいと思います。「今までわたしは神を見いだしたいと望みながらさまよってきました。しかし、主よ。あなたがわたしを照らしてくださったので、わたしはあなたを通して神を見いだします。そしてあなたから御父を受け入れます。わたしはあなたの共同の相続人となります。あなたがわたしを兄弟とすることを恥とされなかったからです。それゆえ、真理の忘却を、無知を取り消そうではないか。目の前の霧のように視界をさえぎる暗闇を追い払おうではないか。まことの神を仰ぎ見ようではないか。・・・・暗闇に埋もれ、死の闇に捕らわれていたわたしたちを天の光が照らしたのだ。太陽よりも明るく、地上の生よりも甘美な光が」(『ギリシア人への勧告』:Protrepticus 113, 2-114,1)。アーメン。

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