教皇ベネディクト十六世のローマ教区の司教と司祭への講話

2013年2月14日(木)午前11時30分からパウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世はローマ教区の司教と司祭と会見し、「第二バチカン公会議をよみがえらせる――一人の証人の回顧と希望」をテーマに講話を行いました。講話は […]


2013年2月14日(木)午前11時30分からパウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世はローマ教区の司教と司祭と会見し、「第二バチカン公会議をよみがえらせる――一人の証人の回顧と希望」をテーマに講話を行いました。講話は46分間にわたり事前に用意した原稿なしに行われました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる司教職と司祭職にある兄弟の皆様。

 わたしにとって、ペトロの奉仕職を離れる前に、もう一度わたしの司祭たち、すなわちローマの司祭の皆様とお目にかかれたのは、摂理による特別な恵みです。教会が生きていること、教会がローマで生きているのを目にするのは、いつも大きな喜びです。そこには、最高の牧者の霊のうちに、主の民を導く司牧者がいます。彼らは真の意味でカトリック的で普遍的な聖職者です。このことはローマ教会の本質に即しています。ローマ教会の本質とは、自らのうちに普遍性を担うことです。それはすべての国民、人種、文化の普遍性です。同時にわたしはローマ教区の総代理(アゴスティーノ・ヴァッリーニ枢機卿)に深く感謝します。総代理はローマにおける召命を活性化し、再発見する助けとなってくださいました。ローマが普遍性の町でなければならないなら、それは力強く堅固な信仰を備えた町でもなければならないからです。このような信仰から召命も生まれます。わたしは確信しています。主の助けによってわたしたちは召命を見いだすことができます。主ご自身が召命をわたしたちに与えてくださるからです。そしてわたしたちは、召命を導き、助け、育て、そこから、主のぶどう畑で働くために役立つことができるのです。
 今日皆様は、聖ペトロの墓前で信条を宣言しました。「信仰年」にあたり、ローマの聖職者が使徒の墓所を囲んで集まることは、きわめて時宜を得ており、また必要です。主は彼らにこういわれたからです。「わたしはあなたにわたしの教会をゆだねる。わたしはあなたの上にわたしの教会を建てる」(マタイ16・18-19参照)。皆様は主のみ前で、ペトロとともに告白しました。「あなたはキリスト、生ける神の子です」(マタイ16・15-16参照)。こうして教会は成長します。ペトロとともに、キリストを宣言し、キリストに従いながら。わたしたちはこのことを永遠に行い続けます。皆様の祈りに深く感謝します。今週の水曜日に述べたとおり、わたしはこの祈りをほとんどからだで感じました。わたしは間もなく退任しますが、祈りの中でいつも皆様のそばにいます。皆様も、たとえわたしが世から隠れても、わたしのそばにいてくださると確信しています。
 今日は、わたしの歳のせいで、皆様が期待なさっていたかもしれない、長い、本当の意味での講話を準備できませんでした。代わりにわたしは、自ら体験した第二バチカン公会議についてささやかなお話をさせていただきたいと思います。一つの逸話から始めます。わたしは1959年にボン大学教授に任命されました。ボン大学では、大学生や、ケルンと他のケルン周辺の教区の神学生が学んでいました。こうしてわたしはケルン枢機卿の、フリングス枢機卿(1887-1978年)と接触をもつことになりました。ジェノヴァのシリ枢機卿(1906-1989年)は、たしか1961年に、公会議についてのヨーロッパのさまざまな枢機卿による連続講演会を企画しました。そして、講演の一つを行うようケルン大司教も招きました。そのテーマは「公会議と現代思想界」でした。
 (フリングス)枢機卿は、最若年の教授だったわたしに、講演の草稿を書くよう命じました。枢機卿はこの草稿が気に入り、ジェノヴァの市民に、わたしが書いた原稿どおりの話をしました。その後間もなく、教皇ヨハネ(二十三世)が枢機卿を招きました。枢機卿は不安に駆られました。自分は何か不正確なこと、間違ったことをいったのではないか。譴責を受けるために召喚され、もしかすると枢機卿衣を取り上げられるのではないかと。実際、秘書が謁見のために枢機卿衣を着せると、枢機卿はいいました。「この衣を着るのもこれが最後かもしれない」。枢機卿が謁見の間に入ると、教皇ヨハネは彼を出迎えて抱擁し、こういいました。「枢機卿様、ありがとうございます。あなたは、わたしがいいたかったけれども、ことばにできなかったことをいってくださいました」。こうして枢機卿は自分が正しい道を進んでいることが分かり、わたしに、公会議に同行するよう命じました。わたしは最初は個人的アドバイザーでした。後にわたしは、第1会期の間に(1962年11月のことだと思います)公会議神学者にも任命されました。
 こうしてわたしたちは、喜びだけでなく、熱意をもって公会議に赴きました。わたしたちは途方もない期待を抱いていました。わたしたちは、すべてが刷新され、本当に新しい聖霊降臨が起き、教会の新しい時代が来ることを期待していました。教会は当時、なお力に満ちていたからです。主日のミサ参加はきちんと行われ、司祭職と修道生活への召命は若干減っていましたが、まだ十分な数がいたからです。しかし人々は、教会が前進しておらず、衰えつつあるのでないか、教会は未来の使者ではなく過去の遺物のように見えるのでないかと感じていました。だから当時わたしたちは、この状況が刷新され、変わることを期待したのです。教会が明日また今日の新しい力となるのでないかと期待したのです。わたしたちは次のことも知っていました。教会と近代の関係は、最初からやや対立的でした。それはガリレオ・ガリレイ裁判での教会の過ちから始まりました。わたしたちはこの最初の間違いを正し、教会と世界の最良の力の新たな統一を見いだしたいと考えていました。それは、人類の未来を開き、真の発展への道を開くためです。こうしてわたしたちは希望と熱意だけでなく、この事業に参加したいという望みに満たされていました。わたしは、ローマ司教会議は悪いモデルだと考えられていたのを思い起こします。本当かどうか分かりませんが、こういわれていました。サン・ジョヴァンニ(・イン・ラテラノ)大聖堂で用意されたテキストが読み上げられます。司教会議の参加者が告げられ、拍手をもって承認されます。そして司教会議が終わります。司教たちはこういいました。決してこのようなものであってはならない。われわれは司教であり、われわれ自身が司教会議の主体である。われわれが望むのは、すでに決まったことを承認することだけではない。むしろ、われわれが主体となること、公会議の担い手となることだ。だから、神経質なほどに教皇に絶対的に忠実であることで知られた、フリングス枢機卿さえも、このことについてこういいました。われわれはここでは違う役割を果たす。教皇がわれわれを招集したのは、われわれが教父となり、普遍公会議となり、教会を刷新する主体となるためだ。だからわれわれは自分たちのこの役割を果たすことを望むと。
 このような態度が表明された最初の機会は、まさに第一日でした。第一日は、委員会の選出が予定されていました。部分的に、委員候補者名簿も用意されていました。この候補者名簿が投票されるはずでした。しかし、すぐに教父たちはいいました。われわれは、ただすでに作成された候補者名簿の投票を行うことだけを望まない。われわれが主体だ。そこで投票は延期しなければならなくなりました。教父たち自身が互いを知り、自ら候補者名簿を作成することを望んだからです。リールのリエナール枢機卿(1883-1974年)とケルンのフリングス枢機卿は、公然とこういいました。これではだめだ。われわれは、自分たちの候補者名簿を作成し、自分たちの候補者を選ぶことを望む。これは革命ではなく、公会議教父の良心と責任によって行われたことでした。
 こうして広く互いを知り合うための活発な活動が始まりました。それは偶然に行われたものではありませんでした。わたしたちが滞在していたデル・アニマ学院では頻繁な訪問が行われました。(フリングス)枢機卿はよく知られており、全世界の枢機卿の訪問を受けました。わたしは、フランス司教協議会事務局長のエチェガレイ師(1922年-)の痩せた長身の姿や、枢機卿たちの会う姿をよく覚えています。このような訪問はその後、公会議を通じて行われました。つまり、国を超えた小規模なミーティングです。こうしてわたしは、ド・リュバック(1896-1991年)、ダニエルー(1905-1974年)、コンガール(1904-1995年)神父らの偉大な人々と知り合いになりました。わたしたちはさまざまな司教を知りました。わたしはとくにシュトラスブールのエルヒンガー司教(1908-1998年)などのことを思い出します。これはすでに教会の普遍性と、教会の具体的な現実の体験でした。教会はただ上から命令を受けるだけではなく、(当然のことながら)つねにペトロの後継者の導きのもとに、ともに成長し、前に進むのです。
 すでに申し上げたとおり、すべての人が大きな期待をもって公会議に集まりました。これほどの規模の公会議が開催されたことはかつてありませんでしたが、だれもどうすればよいかを知りませんでした。もっともよく準備し、いわば明確な意図をもっていたのは、「ライン同盟」と呼ばれた、フランス、ドイツ、ベルギー、オランダの司教団でした。公会議の第一段階で道を示したのはこの人々でした。その後活動は急速に広まり、ますます全員がいつも公会議の創造的活動に参加するようになりました。フランスとドイツの人々は、意味づけは異なるにせよ、さまざまな関心で一致していました。第一の、最初の、単純な(単純に見えた)テーマは、典礼の改革でした。典礼の改革はすでにピオ十二世(在位1939-1958年)によって始まりました。ピオ十二世はすでに聖週間の典礼を改革していたからです。第二は教会論です。第三は神のことば、啓示です。そして最後はエキュメニズムです。フランスの人々は、ドイツの人々よりも、教会と世界の関係のあり方に関心を抱いていました。
 第一のテーマから始めます。第一次世界大戦後、中欧と西欧で典礼運動が起こりました。典礼の豊かさと深さが再発見されたのです。それまで典礼はいわば司祭の『ローマ・ミサ典礼書』に閉じ込められていました。これに対して、民衆は自分の祈禱書で祈っていました。祈禱書は民衆の心に合わせて作成されたものでした。つまり、古典的な典礼の高尚な内容と言語を、もっと感情に訴える、民衆の心に合ったことばに翻訳することが試みられました。しかし、そこではいわば2つの並行する典礼が存在していました。司祭は侍者とともにミサ典礼書によるミサをささげ、信徒はミサの中で、祭壇で行われていることを基本的には理解しながら、祈禱書で祈っていました。しかし今やミサ典礼書の美しさ、深さ、歴史的・人間的・霊的な豊かさが再発見されたのです。そして、会衆の代表者である子どもの侍者が「またあなたの霊とともに」(Et cum spiritu tuo)などというだけでなく、司祭と会衆の本当の意味での対話が必要となりました。実際には、祭壇の典礼と会衆の典礼が一つとなること、典礼の豊かさが会衆に届くための積極的な参加が必要となりました。こうして典礼は再発見され、刷新されたのです。
 今から振り返ってみると、典礼から始めたことはとてもよかったと思います。そこから、神の優位性、礼拝の優位性が明らかとなったからです。「そもそも何ごとも『神のわざ』に優先してはなりません」(Operi Dei nihil praeponatur)。この聖ベネディクトゥス(480頃-547/560年頃)の『戒律』(Regula 43, 3〔古田暁訳、『聖ベネディクトの戒律』すえもりブックス、2000年、176頁〕参照)のことばが、こうして公会議の最高の原則として明らかになりました。公会議は多くのことを語ったが、神については語らなかったと批判する人がいます。公会議は神について語っています。これこそが公会議の行った第一のことです。公会議は本質的に神について語り、キリストのからだと血の典礼をともに祝うことを通じて、すべての民、すべての聖なる民を神の礼拝へと開きました。その意味で、論争的なテーマからすぐに始めるようにと勧める実際的な要素を超えて、公会議が典礼、神、礼拝から始めたことは、本当に摂理のわざでした。ここでは議論の詳細に立ち入ろうとは思いません。実際的な結果を超えて、公会議そのものと、その深さ、根本思想につねに立ち戻ることには意味があります。
 公会議の根本思想にはいくつかのものがあります。第一は過越の神秘です。過越の神秘は、キリスト信者であること、それゆえキリスト教的生活、キリスト教の典礼暦の中心です。それは復活節と主日によって表されます。主日はつねに復活の日だからです。わたしたちの時間は、つねに新たに復活から、すなわち復活したキリストとの出会いから始まります。そして、復活したキリストとの出会いから、世へと歩みます。その意味で、今日、日曜日が最初の日であり、初めであるにもかかわらず、それが週の終わりに変わったことは残念です。わたしたちはこのことを心にとめなければなりません。日曜日は初めです。創造の初めです。それは教会の再創造の初めです。創造主と復活したキリストとの出会いです。この主日の二つの意味も重要です。主日は第一日、すなわち創造を祝う日です。わたしたちは創造の基盤に立ちます。わたしたちは造り主である神を信じます。主日は復活したキリストとの出会いでもあります。復活したキリストは被造物を新たにします。キリストのまことの目的は、神の愛への応答として、世を創造することです。
 他の原則もあります。話されることのない、未知の言語の中に閉じ込められているのではなく、理解できることです。また、積極的な参加です。残念なことに、これらの原則も誤解されました。理解できることは、ありきたりだということではありません。偉大な典礼文は(たとえ母国語で話されても)容易に理解できるものではありません。成長し、神秘の深みにますます歩み入り、理解できるようになるためには、キリスト信者の継続的な教育が必要です。神のことばもそうです。毎日の旧約、使徒書、福音の朗読を考えてみれば分かります。自分の言語だからというだけで、それがすぐに分かる人がいるでしょうか。心と思いをたえず教育することによって初めて、真の意味での理解と参加が生まれます。参加は外的行為以上のものです。それは、人格が、わたしの存在が、教会との交わりへと、そこから、キリストとの交わりへと歩み入ることなのです。
 第二のテーマは教会です。ご存じのとおり、第一バチカン公会議(1869-1870年)は普仏戦争(1870-1871年)のために中断され、一面的、断片的なものとなりました。なぜなら、首位性の教理――それは歴史的にこのとき教会のために決定され、その後の時代のためにきわめて必要とされました――は、予定され、準備されていたより広い教会論の一要素にすぎなかったからです。こうしてこの公会議は断片的なものとなりました。そこでこういうことができます。断片が断片のままでいるなら、わたしたちの歩みは一方的なものとなります。教会は単なる首位性にすぎないものとなるのです。それゆえ、当初から、時が来たら、第一バチカン公会議の教会論を完成して、完全な教会論にしたいという意向が存在していました。ここでも状況がよく整っていたように思われます。なぜなら、第一次世界大戦後、新たなしかたで教会の感覚が再生したからです。ロマーノ・グアルディーニ(1885-1968年)は述べます。「教会は魂の中で目覚め始めた」。あるプロテスタントの司教も「教会の時代」について語りました。何よりも、第一バチカン公会議がすでに予見していた、キリストの神秘体の概念が再発見されました。人々はこう語り、また理解するようになりました。教会はある種の組織、体系、法、制度ではなく(その側面もありますが)、有機体です。生きた現実です。この現実はわたしの心の中に入って来ます。こうしてわたし自身も、信じる心をもって、教会そのものを築く要素となるのです。このような意味で、ピオ十二世は、第一バチカン公会議の教会論の完成に向かう一歩として、回勅『ミスティチ・コルポリス』を著しました。
 1930年代から1940年代にかけて、また1920年代の神学的議論は、完全に「ミスティチ・コルポリス」ということばによって特徴づけられていたといえます。この発見は当時、大きな喜びをもたらすとともに、これに関連して次の定式が生まれました。われわれが教会である。教会は一つの構造ではない。われわれキリスト信者自身が、ともに、教会の生きたからだである。当然のことながら、これは次の意味で真実です。われわれ、すなわち信じる者の真の「われわれ」は、キリストの「わたし」とともに、教会です。教会であるのは、わたしたちの一人ひとりであって、「特定のわれわれ」でも、教会を自称する特定のグループでもありません。まことに、この「われわれが教会である」は、すべての時代と場所の信じる者の偉大な「われわれ」にわたしが接ぎ木されることを必要とします。それゆえ、第一の考えは、神学的にだけでなく、構造的にも教会論を完成させるということです。すなわち、ペトロとその唯一の任務を継承することだけでなく、司教と司教団の任務もよりよく定義づけるということです。このことを行うために、「団体性」(collegialitas)ということばが見いだされました。このことばはときには激しく、いわば大袈裟に議論されました。しかしこのことばは(別のことばを用いることもできたかもしれませんが、このことばが役立ったのです)、司教が団体的に、十二人、すなわち使徒団を継続することを表しました。すでに述べたとおり、唯一、ローマ司教だけがペトロという特定の使徒を継承します。他のすべての司教は、使徒団を継続する団体に加わることによって、使徒たちの後継者となります。こうして司教団、すなわち団体は、十二人の団体を継続します。それゆえ彼らは、その必要性と任務、権利と義務を有します。多くの人にとって、これは権力闘争のように思われました。自分の権力について考えた人も中にはいるかもしれません。しかし、本質的に、それは権力の問題ではなく、さまざまな要素が補い合うことです。つまり、構成要素としての司教たち、すなわち使徒たちの後継者によって教会のからだが完成されるということです。司教たちは皆、この偉大なからだとともに、教会の構成要素なのです。
 これが二つの根本的な要素だったといえます。ところで、やがて、教会論の神学的な完成を探求する過程で、1940年代以降、1950年代に、キリストのからだという概念に対する批判が生じました。「神秘的」ということばは、霊的かつ排他的すぎると考えられたのです。そこで「神の民」という概念が登場しました。公会議は適切にもこの要素を取り入れました。教父において、「神の民」は旧約と新約の連続性の表現として考えられていたからです。新約文書の中で、旧約のテキストに対応する「ラオス・トゥー・テウー」ということばは(たしか2つの例外を除いて)、旧約の神の民、すなわちユダヤ人を意味します。ユダヤ人は、世の他の民(「ゴイム」)の中で、彼ら「こそ」が神の民だからです。他の民、すなわちわたしたち異邦人は、それ自体として神の民ではなく、キリストとの交わりをもつことにより、アブラハムの子、それゆえ神の民となります。キリストはアブラハムの子孫だからです。わたしたちも、キリストとの交わりをもち、キリストと一つになることによって、神の民です。「神の民」という概念は旧約と新約の連続性、世と人類との神の歴史の連続性を意味しますが、キリストの要素も意味します。わたしたちはキリストとのかかわりを通して初めて神の民となります。こうして二つの概念は結び合わされます。こうして公会議は三位一体的な教会論を築き上げました。すなわち、教会は、父である神の民であり、キリストのからだであり、聖霊の神殿です。
 しかし、公会議後、一つの要素が明らかになりました。ただしこの要素は公会議自体の中にも隠れた形で存在していました。すなわち、神の民とキリストのからだのつながりは、聖体の一致におけるキリストとの交わりにほかならないということです。神の民とキリストのからだの関係は、交わりという、新しい現実を造り出します。公会議後、次のことが見いだされたといえます。実際、公会議はこの交わりという中心概念を見いだすとともに、それによって導かれていたのです。文献学的にいえば、この概念は公会議の中でまだ完全に成長してはいませんでしたが、この交わりという概念が教会の本質をますます表すようになったのは、公会議の結果です。交わりにはさまざまな次元があります。すなわち、三位一体の神との交わり(神ご自身が、父と子と聖霊の交わりだからです)、秘跡の交わり、司教団と教会生活における具体的な交わりです。
 啓示の問題はもっと論争を招きました。ここで問題となったのは、聖書と聖伝の関係であり、これに何よりも関心を寄せたのは、自由の拡大を求める釈義学者です。彼らはいわば自分たちがプロテスタントの人々に比べて不利な状況に置かれていると感じていました。プロテスタントの人々が偉大な発見を行っているのに対して、カトリックの人々は教導職に従わなければならないという「ハンディ」を負っていると感じたのです。それゆえ、ここではきわめて具体的な議論が行われました。釈義学者はどれだけの自由をもっているのか。どうすれば聖書を適切に解釈できるか。聖伝とは何を意味するのか。これは多面的な議論であり、今取り上げることはできません。しかし、重要なことはこれです。いうまでもなく、聖書は神のことばです。教会は聖書に従い、神のことばに忠実に従うのであって、聖書の上に立つのではありません。しかし、聖書の生きた主体である、生きた教会が存在するとき初めて、聖書は聖書たりえます。教会という生きた主体がなければ、聖書は単なる一文書にすぎず、さまざまな解釈に開かれ、究極的な解明を得ることができません。
 すでに申し上げたとおり、この議論は困難なものでした。そして教皇パウロ六世の発言が決定的な意味をもちました。この発言は、公会議の進行に対する父としての心遣いと責任とともに、公会議への深い尊重の念をも余すところなく示すものでした。当時、聖書は完全であり、すべてはその中に見いだされるという思想が生まれていました。それゆえ、聖伝は不要であり、教導職は何もいうべきことはないというのです。そこで教皇は、啓示に関する文書に挿入すべき文言の(たしか)14の定式を公会議に伝えました。そして、わたしたち教父に14の定式の一つを選ぶ自由を与えました。しかし教皇はこういわれました。文書を完成させるために、一つを選ばなければなりません。わたしが覚えているのは次の定式です。「信仰の諸真理に関するあらゆる確実性を聖書から引き出すことはできない」(non omnis certitudo de veritatibus fidei potest sumi ex Sacra Scriptura)。つまり、信仰に関する教会の確信は、一つの独立した文書だけから生まれるのではなく、聖書に照らされ、導かれた教会という主体を必要とします。こうして初めて聖書はその余すところのない権威をもって語るのです。教理委員会で14の定式から選ばれたこの表現は、教会の不可欠性と必要性を示すために決定的に重要だといえます。それは、生きたからだである聖伝とは何かを理解するためにも決定的に重要です。神のことばは、この生きたからだから、初めから生かされ、光を与えられ、生まれるのです。正典形成という出来事も、教会的な出来事です。これらの文書が聖書であるのは、教会の照らしの結果です。教会は自らのうちに聖書正典を見いだすからです。教会は見いだすのであって、造り出すのではありません。そして、つねにこの生きた教会との交わりのうちにおいてのみ、人は本当の意味で聖書を神のことばとして理解し、解釈することができます。このみことばが、生けるときも死ぬときもわたしたちを導くのです。
 すでに申し上げたとおり、これはきわめて困難な議論でした。しかし、教皇と、公会議の中に現存した聖霊の光のおかげで、文書が出来上がりました。これは全公会議中、もっともすばらしく、また革新的な文書の一つです。それは今なお深く研究すべき文書です。現代においても、釈義は、いわゆる歴史的・批判的方法の精神のもとに、教会の外で聖書を解釈する傾向があるからです。この方法は重要ですが、究極的な確実性をもって解決を与えることができません。聖書が単なる人間のことばではなく、神のことばだと信じるとき、そして、神がかつても今も語りかける、生きた主体が生きているとき、初めてわたしたちは聖書を適切に解釈することができます。イエスについてのわたしの著作の序文で述べたとおり(『ナザレのイエス』第1巻参照)、ここで今なおなすべき多くのことがあります。それは、公会議の精神による本当の意味での解釈に到達するためです。この分野で、公会議の適用は今なお不完全であり、なすべきことがあるのです。
 最後はエキュメニズムです。今、この問題に立ち入るつもりはありません。しかし、確かなことはこれです。とくにナチズムの時代のキリスト者の「受難」の後、キリスト者は一致を見いだすことができるようになりました。少なくとも一致を探求することができるようになりました。しかし、次のことも明らかです。一致を与えることができるのは、神だけです。わたしたちは今なお一致への途上にあります。さて、以上のテーマをもっていわゆる「ライン同盟」は作業を成し遂げました。
 公会議の後半は、さらに広がりをもつものでした。深い緊急性をもって次のテーマが現れました。すなわち、現代世界、現代という時代、そして教会です。また、このテーマとともに、次のテーマが現れました。現代世界と社会を築く責任。現代世界の未来への責任と終わりの日への希望。キリスト信者の倫理的責任、わたしたちが導きを見いだすべきもの。さらに、信教の自由、発展、他の諸宗教との関係です。この時点で、信教の自由に強い関心をもつアメリカ、つまり合衆国だけでなく、公会議の参加者全体が真の意味で議論に加わっていました。第3会期に米国の司教たちは教皇にこういいました。われわれは公会議が投票した信教の自由に関する宣言を荷物に入れないで、帰国することはできませんと。しかし教皇は、堅固な決意と忍耐をもって、文書を第4会期に持ち越しました。それは、公会議教父の間で議論を深め、完全な合意に達するためでした。こういうことができます。公会議の議論には、アメリカ人だけでなく、ラテンアメリカも強力に参加しました。彼らはカトリック的な大陸の民衆の悲惨な状況と、人々の置かれた状況に対する信仰の責務をよく自覚していたからです。アフリカとアジアも、諸宗教対話の必要性を知っていました。このことを認めなければなりませんが、わたしたちドイツ人が当初、予想していなかったさまざまな問題が生じていたのです。今、これらをすべて述べることはできません。偉大な文書『現代世界憲章』は、キリスト教的終末論と現代の発展の関係、未来の社会への責任と、来世に対するキリスト信者の責任の関係という問題をよく分析し、キリスト教的倫理とその基盤を刷新しました。しかし、この偉大な文書以外に、思いがけないしかたで、現代の問題により体系的かつ具体的なしかたでこたえる、もう一つの文書が生まれました。それが『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』です。公会議には初めから、わたしたちの友であるユダヤ人が出席していました。彼らはこういいました。それはとくにわたしたちドイツ人に向けられたものでしたが、わたしたちだけにいわれたのではありませんでした。この数十年のナチスの時代の悲惨な出来事の後に、カトリック教会は旧約とユダヤ人について一言いうべきである。彼らはこういいました。ショア(ホロコースト)に対する責任がカトリック教会にないのは明らかだ。しかし、この犯罪を犯したのは、大部分がキリスト教徒である。われわれは、真の信仰者がつねにこうした行為に抵抗してきたことをよく知っている。しかしわれわれは、キリスト教徒の良心を深め、新たにする必要がある。それゆえ、旧約の神の民の世界との関係を考察の対象とすべきなのは明らかでした。アラブ諸国(アラブ諸国の司教)がこれを快く思わなかったのは理解できることです。彼らは、イスラエル国家が顕彰されることを恐れたのです。わたしたちももちろんそれを望んではいませんでした。アラブ諸国はこういいました。むろん、ユダヤ人について真に神学的なしかたで言及するのはよいことであるし、必要である。しかし、それを語るなら、イスラームについても語るべきだ。そうして初めて均衡がとれるからだ。イスラームも大きな問題であり、教会はイスラームとの関係も明らかにすべきである。当時わたしたちはこの問題をよく理解していませんでした。まったく理解していなかったわけではありませんが、理解が足りませんでした。今日わたしたちは、それがどれだけ必要か分かっています。
 イスラームについての作業も始めたとき、わたしたちはこういわれました。世界には他の宗教も存在する。全アジアだ。仏教、ヒンドゥー教を考えてみればよい。こうして、最初、旧約の神の民についてのみ考察するはずだった宣言に代わって、諸宗教対話についての文書が生まれました。これは、30年後になって初めてその豊かな内容と重要性が示されたことの先取りとなりました。今、このテーマに立ち入ることはできません。しかし、この文書を読めば、それがきわめて深みがあり、真に現実を知っている人によって書かれたものであること、そして、わずかな簡潔なことばで本質を示しているのが分かります。対話の基盤も示されました。対話は、相違と、多様性と、キリストの唯一性への信仰のもとに行われます。キリストは唯一のかただからです。信じる者にとって、諸宗教が一つのテーマの変奏にすぎないなどと考えることはできません。決してそうではありません。人々に語りかける、生ける神という現実が存在します。「唯一の」受肉した神が存在します。それゆえ、「唯一の」神のことばが存在します。これこそが真の意味で神のことばです。しかし、被造物についてのある種の人間的な光を伴う、宗教体験も存在します。だから対話を行うことは必要であり可能です。互いに心を開き合い、すべての人の心を神の平和へと開かなければなりません。それはすべての神の子の平和であり、神の家族全体の平和だからです。
 それゆえ、『現代世界憲章』と関連する『信教の自由に関する宣言』と『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』という2つの文書は、きわめて重要な三部作を構成します。この重要性はその後の数十年間に明らかとなりました。またわたしたちは今なお次のことの理解を深めようと努力しています。すなわち、神の啓示の唯一性、キリストのうちに受肉した唯一の神の唯一性と、諸宗教の多様性の関係です。これら諸宗教とともに、わたしたちは平和と、聖霊の光に心を開くことをめざしています。聖霊こそがわたしたちを照らし、キリストへと導くからです。
 ここで第三の点に触れたいと思います。教父による公会議(真の公会議)も存在しましたが、「メディア」による公会議も存在しました。後者はいわば別個の公会議でしたが、世界はそれを通じて、すなわち「メディア」を通じて公会議を認識しました。それゆえ人々に直接影響を及ぼした公会議は、教父による公会議ではなく、「メディア」による公会議でした。ところで、教父による公会議は信仰において行われました。それは「知解」(intellectus)を求める信仰による公会議でした。信仰は、理解しようと努めます。現代における神のしるしを理解しようと努めます。現代における神の問いかけにこたえ、神のことばのうちに今日と明日のためのことばを見いだそうと努めます。申し上げたとおり、公会議全体は信仰のうちに、すなわち「知解を求める信仰」(fides quaerens intellectum)のうちに動きました。これに対して、ジャーナリストによる公会議は、いうまでもなく、信仰において行われるのではありません。むしろそれは、現代の「メディア」の範疇の中で、すなわち信仰の外で、別の解釈法によって行われます。それが政治的解釈法です。「メディア」にとって公会議は、教会内の異なる思潮の間の政治闘争であり、権力闘争でした。「メディア」が自分たちの世界に合っているように思われる党派に与する立場をとるのは、当然です。教会の脱集権化、司教の強化、そして、「神の民」ということばを通じた、民すなわち信徒の強化をめざす人々がいました。3つの問題が存在しました。まず教皇の権力です。それはやがて司教の権力に移管され、さらに万人の権力、民衆の支配に移管されます。当然のことながら、民衆の支配こそがこの人々にとって承認され、宣言され、与えられるべき分け前でした。典礼についても同じです。彼らは信仰行為としての典礼に関心をもちませんでした。典礼は、理解できることが行われる場であり、共同体の活動であり、世俗的なものでした。ある種の歴史的理由をもって次のように主張する傾向も存在したことを、わたしたちは知っています。神聖性は、異教的なものであり、また旧約に由来するものだ。新約において重要なのは、キリストが「外で」死んだことだ。「外で」とは、城外で、すなわち世俗世界でということだ。それゆえ神聖性を廃止し、世俗性を礼拝すべきだ。礼拝とは、礼拝することではなく、共同の行為、共同の参加による行為だ。このように翻訳され、通俗化した公会議思想が、典礼改革の実施過程で蔓延しました。このような思想は、信仰という、公会議そのものの鍵によらない公会議観から生まれました。聖書の問題についても同じことがいえます。聖書は歴史的な一文書にすぎず、歴史的にのみ取り扱わなければならないとされるのです。
 お分かりのとおり、このような「メディア」による公会議はすべての人にとって近づきやすいものです。それゆえ、これが主流となり、影響を及ぼすようになって、多くの災いと問題と苦しみをもたらしました。神学校は閉鎖され、修道院は閉ざされ、典礼はつまらないものになりました。真の公会議を具体化し、実現するのも困難になりました。仮想的な公会議が現実の公会議より強力になったからです。しかし、公会議の現実の力は存在していました。それは少しずつ実現され、真の力となってきました。それこそが、真の改革であり、真の教会の刷新でもあります。公会議から50年を経て、仮想的な公会議は廃れ、なくなったように思われます。そして、霊的な力に満ちた真の公会議が姿を現しています。「信仰年」にあたって、また「信仰年」から出発して、聖霊の力に満ちた真の公会議を実現し、教会を真の意味で刷新するのが、わたしたちの務めです。主がわたしたちを助けてくださいますように。わたしも、引退後も、祈りによっていつも皆様とともにいます。確信をもって、主とともに歩んでいこうではありませんか。勝利を収めるのは主です。ご清聴ありがとうございます。

PAGE TOP