教皇フランシスコの受難の主日ミサ説教

3月24日(日)午前9時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコは受難の主日(枝の主日)のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。ミサには、第28回「世界青年の日」にあたり、 […]

3月24日(日)午前9時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコは受難の主日(枝の主日)のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。ミサには、第28回「世界青年の日」にあたり、ローマ教区と他の教区の青年が参加しました。今年の「世界青年の日」のテーマは「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28・19参照)です。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様

1 イエスはエルサレムに入ります。弟子たちの群れは喜びのうちにイエスに同伴します。彼らは服をイエスの前に敷きます。イエスが行った奇跡が語られ、賛美の叫び声が上がります。「主の名によって来られるかた、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」(ルカ19・38)。
 群衆、喜び、賛美、祝福、平和。喜びの雰囲気があたりを包みます。イエスは人々の心に深い希望を呼び覚まします。とくに身分の低い人、素朴な人、貧しい人、忘れられた人、世間の人々から見て取るに足りない人々の心のうちに。イエスは人間のみじめな状態をよく知っておられます。彼は神のあわれみのみ顔を示し、からだと魂をいやすために身をかがめます。
 これがイエスです。これがイエスの心です。イエスの心はわたしたち皆に目を注ぎます。わたしたちの病と罪に目を注ぎます。イエスの愛は偉大です。こうしてイエスはこの愛をもってエルサレムに入ります。そしてわたしたち皆に目を注ぎます。それは光に満ちた、すばらしい情景です。この光は、イエスの愛の光です。喜びに満ちた、イエスのみ心の光です。
 ミサの初めに、わたしたちもこれを繰り返しました。わたしたちはなつめやしの枝を振りました。わたしたちもイエスを迎え入れました。わたしたちも、イエスとともに歩み、イエスを親しく知る喜びを表しました。イエスは友、兄弟、また王として、すなわちわたしたちの人生を照らす輝く灯台として、わたしたちのうちに、わたしたちのただ中におられます。イエスは神でありながら、身を低くしてわたしたちとともに歩まれます。イエスはわたしたちの友であり、兄弟です。イエスは今ここで、わたしたちの歩みを照らしてくださいます。だからわたしたちは今日、イエスを迎え入れました。「喜び」――これが、わたしが皆様に最初にいいたいことばです。悲しみに沈んだ人になってはなりません。キリスト信者は決して悲しみに沈みません。失望に打ちひしがれません。わたしたちの喜びは、多くのものを所有することから生まれるのではありません。それは、わたしたちのただ中におられるイエスというかたと出会った喜びから生まれるのです。困難なときも、人生の歩みの中で乗り越えられないように思われる多くの問題や困難にぶつかったときも、イエスとともにいれば、わたしたちは独りきりではありません――このことを知ることから、わたしたちの喜びは生まれます。困難なときに、敵がやって来ます。悪魔がやって来ます。悪魔は多くの場合、天使の姿をとって、わたしたちを欺こうと語りかけます。悪魔のささやきに耳を傾けてはなりません。イエスに従おうではありませんか。わたしたちはイエスとともに歩みます。イエスに従います。しかし何よりもわたしたちは知っています。イエスが、わたしたちとともに歩み、わたしたちをご自分の肩に担ってくださることを。これこそが、わたしたちが現代に伝えるべき、わたしたちの喜びであり、希望です。どうか希望を奪われることのないようにしてください。それはイエスが与えてくださったものだからです。

2 第二に申し上げたいことはこれです。わたしたちは自問します。なぜイエスはエルサレムに入るのでしょうか。もっと分かりやすくいえば、イエスはどのようにエルサレムに入るのでしょうか。群衆はイエスを王としてたたえます。イエスもそれに反対せず、群衆を黙らせることはしません(ルカ19・39-40参照)。しかし、イエスはどのような王なのでしょうか。イエスの姿に目を向けたいと思います。イエスは子ろばに乗られます。イエスには付き従う家来はいません。イエスは、力を象徴する軍隊に囲まれてもいません。イエスを迎え入れるのは、身分の低い、素朴な人々です。彼らはイエスのうちにある大いなるものを見いだす感覚をもっています。信仰の感覚をもっています。この信仰の感覚は述べます。このかたこそ救い主です。イエスが聖なる都に入ったのは、地上の王、権力者、支配者が受けるような称賛を受けるためではありません。イエスは打たれ、嘲られ、侮辱されるために都に入られました。第一朗読でイザヤが予告したとおりです(イザヤ50・6参照)。イエスが都に入ったのは、茨の冠と鞭と紫の服を受けるためです。イエスが王となるのは、さげすまれるためです。イエスが都に入ったのは、十字架の木を背負い、カルワリオ(されこうべ)に上るためです。そこからわたしたちは、「十字架」という、第二のことばへと導かれます。イエスがエルサレムに入ったのは、十字架上で亡くなるためです。そしてまさにこの十字架上で、イエスの神的な王としての姿が輝きます。イエスの王座は十字架の木です。わたしは、ベネディクト十六世が枢機卿たちに述べたことを思い起こします。「皆様は十字架につけられた王に仕える王です」。これがイエスの王座です。イエスはこの王座に座りました。なぜ十字架なのでしょうか。それはイエスが、悪と汚れと世の罪を、またわたしたち皆の罪をもご自身に負って、それを洗い清めるためです。ご自身の血によって、神のあわれみと愛によって洗い清めるためです。わたしたちの周りに見られるとおり、悪はどれほど深い傷を人類に与えていることでしょうか。戦争、暴力、もっとも無力な人に影響を及ぼす経済紛争。金銭に対するあくなき欲望。しかし、だれも金銭をいつまでも身に着けることはできず、いつかはそれを手放さなければなりません。わたしたちが子どものとき、祖母がこういいました。「死体を包む布にはポケットがありません」。富と権力への欲望、腐敗、分裂、人間のいのちと被造物に対する罪。そして、わたしたち皆が知っている、自分自身の罪――わたしたちが神と隣人と全被造物に対して愛と尊敬を欠いたこと。イエスは十字架上ですべての悪の重みを感じながら、神の愛の力をもってこれに打ち勝ちます。ご自身の復活によって悪を打ち負かします。これが、イエスが十字架の王座の上でわたしたち皆に与えてくださる恵みです。愛をもってキリストの十字架を受け止めることから、悲しみではなく、喜びが生まれます。それは、救われた喜びです。イエスが亡くなる日に成し遂げたわざに少しでもあずかれる喜びです。

3 今日、このサンピエトロ広場には多くの若者が来ておられます。28年来、枝の主日は「世界青年の日」となってきました。ここで「若者」という第三のことばについて申し上げます。親愛なる若者の皆様。行列のとき、皆様が来られる姿を見ておりました。皆様はイエスを囲んで、オリーブの枝を振りました。イエスの名を歓呼のうちに叫び、イエスとともにいる喜びを表しました。皆様は信仰を記念するために重要な役割を果たします。皆様は信仰の喜びを伝えてくれます。たとえ70歳、80歳になっても、いつまでも若々しい心をもって信仰を生きなければならないことを告げてくれます。若々しい心。キリストとともにいるなら、心は決して年をとりません。しかし皆様がよく知っておられるとおり、わたしたちが従う王、わたしたちとともに歩いてくださる王はたいへん特別なかたです。この王は、十字架に至るまで愛し、仕えること、愛することをわたしたちに教えてくださいます。皆様はキリストの十字架を恥じてはなりません。むしろ十字架を受け入れなければなりません。なぜなら、皆様は知っておられるからです。自分を与え、自分自身から脱け出ることによって、わたしたちがまことの喜びを得ることを。神はご自身の愛によって悪に打ち勝ったことを。皆様は諸大陸を通り、世の道を歩いて、旅する十字架を運んで来られました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28・19参照)というイエスの呼びかけにこたえて、十字架を運んで来られました。この呼びかけが、今年の「世界青年の日」のテーマです。皆様が十字架を運んで来られたのは、すべての人にこう告げるためです。イエスは十字架上で、人々また諸国民を隔てる敵意の壁を打ち壊し、和解と平和をもたらしました。親愛なる友人の皆様。わたしも今日から皆様とともに、福者ヨハネ・パウロ二世とベネディクト十六世の歩んだ道を歩み始めます。わたしたちはすでにこの大いなる十字架の旅の次の段階に近づいています。リオデジャネイロでの7月を楽しみにしています。このブラジルの大きな町でまたお目にかかりましょう。とくに皆様の共同体で、霊的な準備を深めてください。リオデジャネイロでの集会が全世界にとって信仰のしるしとなるためです。若者は世に向かって告げなければなりません。イエスに従うのはすばらしいことです。イエスとともに歩むのはすばらしいことです。イエスのメッセージはすばらしいものです。自分自身から脱け出て、世の果てまで、人生の果てまでイエスを伝えるのはすばらしいことです。喜びと十字架と若者――これがわたしの申し上げたい三つのことばです。
 おとめマリアの執り成しを祈り願います。マリアがわたしたちに教えてくださいますように。キリストと出会う喜びを。十字架のもとに見いだすべき愛を。この聖週間と、生涯全体で、熱心な若々しい心をもってキリストに従わなければならないことを。アーメン。

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