2013年 第28回「世界青年の日」教皇メッセージ(2013.3.24)

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28・19参照)

2013年 第28回「世界青年の日」教皇メッセージ
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28・19参照)

親愛なる友人である若者の皆さん

 深い喜びと愛情を込めて皆さんにごあいさつ申し上げます。皆さんの多くは、よりいっそう「イエス・キリストに根を下ろして造り上げられ、信仰をしっかり守り」(コロサイ2・7参照)、ワールドユースデー・マドリード大会から戻られたことでしょう。わたしたちは今年、「主においてつねに喜びなさい」(フィリピ4・4)というテーマのもとに、キリスト者であることの喜びを教区で祝いました。そして今、2013年7月にブラジルで行われる次のワールドユースデー・リオデジャネイロ大会に向けて準備を進めています。
 わたしは、何よりもまず、この重要な大会に参加するよう皆さんに改めてお願いします。ブラジルの美しい街を見下ろすあのあがない主キリストの像が、わたしたちにとって、多くを物語るしるしとなるでしょう。キリストの開かれた両腕は、ご自分のもとに来るすべての人を迎え入れたいという願いを表し、その心は皆さん一人ひとりに対するキリストのはかりしれない愛のしるしとなります。キリストに引き寄せていただきましょう。次のワールドユースデーのためにリオに集まる他のすべての青年とともに、この出会いを体験しましょう。キリストの愛を受け入れてください。そうすれば、皆さんはこの世界に欠かせないあかし人となります。
 ワールドユースデー・リオデジャネイロ大会のテーマ、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28・19参照)について今から考え、大会に備えるようお願いします。これは、キリストが全教会に与えた宣教という大いなる命令です。そして、二千年経った今日もなお、それは必要とされています。この命令を心の中で力強く響かせなければなりません。リオ大会に備える一年は、信仰年と重なります。信仰年は、「キリスト教信仰を伝えるための新しい福音宣教」をテーマとする世界代表司教会議(シノドス)から始まりました。親愛なる若者の皆さん、教会全体のこうした宣教活動に皆さんも参加することをうれしく思います。キリストを知らせることは、他者に与えることのできるもっとも大切な贈り物なのです。

1.力強い呼びかけ
 歴史を見ると、いかに多くの若者が、自らを惜しげなくささげ、福音を告げ知らせることによって、神の国とこの世の発展のために多大な貢献をしてきたかが分かります。彼らは、情熱をもって、キリストのうちに表された神の愛についてのよい知らせを伝えました。彼らは、現代よりもはるかに劣る、当時、利用可能であった方法や手段を用いました。その一人である福者ジョゼー・デ・アンシエッタに、わたしは思いをはせます。彼は、16世紀の若いスペイン人イエズス会士で、20歳になる前にブラジルに宣教師として渡り、新世界の偉大な使徒となりました。一方、わたしは、皆さんの中で教会の使命のために惜しみなく尽くしている人にも思いを寄せます。マドリード大会で、とりわけボランティアの皆さんとの集いにおいて、わたしはそのすばらしいあかしを目の当たりにしました。
 今日、数多くの若者が、人生は何かよいものだろうかと真剣に問いかけ、なかなか自分の道を見つけられずにいます。それでも、ほとんどの若者が現代の問題に目を向け、「わたしに何かできることはあるだろうか」と自らに問いかけています。この暗闇を照らすのは信仰の光です。それは、あらゆる人間のいのちが、かけがえのないものであることを理解するのを助けます。なぜなら、わたしたち一人ひとりが神の愛の実りだからです。神はすべての人を愛します。ご自分から遠ざかった人や、ご自分を忘れてしまった人をも愛します。神は忍耐強く待ちます。神はまさに、わたしたちを悪から根本的に解き放つために、死んで復活した御子をお与えになったのです。キリストは、救いと新しいいのちについてのこの喜びの知らせを、すべての人に至るところで伝えるために弟子たちを遣わしました。
 この福音宣教という使命を継続するにあたり、教会は皆さんにも期待しています。親愛なる若者の皆さん。皆さんは、同世代の仲間の中で先駆けとなる宣教者です。今年、50周年を迎える第二バチカン公会議の終わりに、神のしもべパウロ六世は、世界の若者にメッセージを送り、その冒頭に記しました。「全世界の青年男女に、公会議は最後のメッセージを送りたいと思います。なぜなら、諸君こそ、先輩によってかかげられた燈火を受け取って、歴史上最大の変革を遂げつつある現代社会に生きていこうとするからです。諸君は両親や教師の最良の模範と教訓とを受け取って明日の社会を形作り、その社会とともに諸君の明日の浮沈をかけているからです」そして、次のことばで締めくくりました。「先輩の作った世界よりも、もっと優れた世界を熱心に建設してください」(「青年たちに」、1965年12月8日[浜寛五郎訳、『第二バチカン公会議解説 第6巻 歴史に輝く教会』、「現代人におくる第二バチカン公会議のメッセージ」中央出版社])。
 親愛なる友人の皆さん。この招きは現代にも当てはまります。わたしたちは、歴史の中の非常に特別な時代に生きています。技術の進歩は、人や国家間の交流にいまだかつてないほどの可能性をもたらしました。しかし、こうした関係のグローバル化は、それが物質主義ではなく愛に基づいている場合にのみ、建設的なものとなり、世界が人間性において発展するのを助けます。愛だけが心を満たし、人々を結びつけることができます。神は愛です。神を忘れるとき、わたしたちは希望を失い、他者を愛せなくなります。だからこそ、神が現存することをあかしし、他者がそれを体験できるようにする必要があるのです。人類、そしてわたしたち一人ひとりが救われるかどうかは、このことにかかっています。そのことを理解する人は、聖パウロとともに叫ばずにはいられません。「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(一コリント9・16)。

2.キリストの弟子になりなさい
 皆さんに宣教を呼びかける理由は、もう一つあります。それは、宣教は皆さん自身の信仰の旅に必要だからです。福者ヨハネ・パウロ二世が記したように、「信仰は、他者に伝えられるときに強められます」(回勅『救い主の使命』2)。福音を告げ知らせるとき、皆さん自身もキリストにより深く根を下ろし、キリスト者として成熟することにより成長します。宣教のために尽くすことは信仰の本質的な側面です。もし、福音をのべ伝えないなら、わたしたちは真の信者ではありえません。福音の告知は、キリストと出会い、自らの生涯を築き上げる土台をキリストのうちに見いだす喜びの結果以外の何ものでもありません。他者に奉仕し福音を告げ知らせるとき、多くの活動によって分散しがちな皆さんの生活が、主のうちに一致を見いだします。皆さんも、自らを築き上げ、人間として成長し、成熟していくのです。
  宣教者であるとは、何を意味するのでしょうか。それは、何よりもまず、キリストの弟子であることを意味します。そして、キリストに従い、キリストに目を向けなさいという招きに絶えず耳を傾けることを意味するのです。「わたしは柔和で謙遜な者だから、……わたしに学びなさい」(マタイ11・29)。弟子とは、イエスのことばに聴き入る人(ルカ10・39参照)であり、また、イエスがご自分のいのちを与えるほどにわたしたちを愛する先生であることを認める人です。ですから、皆さん一人ひとりが、日々、みことばに自分自身を造り上げていただくべきです。そうすれば、皆さんは主イエスの友となり、他の若者をイエスとの友情へと導くことができるでしょう。
  神から受けたたまものについて考えてください。そうすれば、今度はそれを他の人々に伝えることができるでしょう。自分のこれまでの人生を顧みることを学んでください。前の世代から受け継いだすばらしい遺産に気づいてください。非常に多くの信仰深い人々が、試練や無理解に直面しながらも、勇気をもって信仰を伝えてきました。信仰の真理を伝えてきた人々、そして他者への伝達をわたしたちに託している人々と、わたしたちが大きなきずなで結ばれていることを決して忘れないようにしましょう。宣教者であることは、教会の信仰というこの遺産を知ることを前提とします。信仰を伝えるためには、自分の信仰について知る必要があります。ワールドユースデー・マドリード大会で手渡した若者のためのカテキズム『YOUCAT』の前書きに、わたしは次のように記しました。「皆さんは、自分が何を信じているのかを知らなければなりません。ITの専門家がコンピューター内部の仕組みを知るのと同じくらい正確に、自分の信仰について知る必要があります。優れた音楽家が自分の演奏している作品を理解するのと同じように、自分の信仰を理解しなければなりません。そうです。現代が抱える問題や誘惑に力強く決然と挑むためにも、皆さんは親の世代よりももっと深く信仰に根ざさなければならないのです」 。

3.行きなさい
 「全世界に行って、すべての造られたものに福音をのべ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われる」(マルコ16・15-16)。イエスはこの命令をもって、弟子たちを宣教に遣わしました。福音宣教は、救いのよい知らせを他者に伝えること、そして、そのよい知らせとはイエス・キリストというかたであると知らせることを意味します。キリストと出会い、自分がいかに神に愛され、救われているかに気づくとき、わたしは神を他者に知らせたいという望みだけでなく、その必要も感じ始めます。ヨハネによる福音書の初めには、アンデレがイエスと出会った直後に、その兄弟シモンを連れてくるために走って行った様子が記されています(ヨハネ1・40-42参照)。福音宣教は、つねに主イエスとの出会いから始まります。イエスのところに来て彼の愛を体験した人は、その出会いのすばらしさとイエスとの友情から生じる喜びを、すぐにでも分かち合いたいと望みます。キリストを知れば知るほど、キリストについて語りたくなります。キリストと会話すればするほど、キリストについて語りたくなります。キリストに魅了されればされるほど、他の人をキリストに引き合わせたくなるのです。
 聖霊は、新しいいのちをもたらす洗礼を通してわたしたちのうちにとどまり、心と気力を燃え立たせます。聖霊は、神を知り、キリストとの友情を深める方法をわたしたちに示します。よい行いをし、他者に奉仕し、自らをささげるよう、わたしたちを促すのは、聖霊にほかなりません。堅信の秘跡を通して、わたしたちは、福音をより成熟したしかたであかしできるように、聖霊のたまものによって強められます。したがって、愛の霊こそが宣教の原動力です。聖霊は、わたしたちに自分自身の殻から出て、福音を伝えに「行く」よう駆り立てます。親愛なる若者の皆さん、神の愛の力に導かれるがままに任せなさい。自分の問題や習慣に取り囲まれ、自らの世界に閉じこもる傾向を、その愛に打ち負かしてもらいなさい。他者のもとに「行き」、神と出会う道を示すために、自分の殻から「出る」勇気を持ってください。

4.すべての民を引き寄せなさい
 復活したキリストは、ご自分が救いをもたらすために来たことをすべての民にあかしするため、弟子たちを遣わしました。なぜなら、愛に満ちあふれる神は、だれも欠けることなく、すべての人が救われることを望んでおられるからです。イエスは、愛のうちに十字架上でご自分を犠牲にすることにより、すべての人が神を知り、神との愛の交わりに入る道を開きました。イエスは、地の果てまで福音の救いの知らせを伝え、あらゆる時代と場所の人々に手を差し伸べるために、弟子たちの共同体を作りました。この神の望みをわたしたちの望みとしようではありませんか。
 親愛なる友人である皆さん。目を開いて見回してください。あまりにも多くの若者が、もはや人生に何の意味も見いだせなくなっています。行きなさい。キリストは若い皆さんも必要としています。キリストの愛に、皆さん自身を捕らえ、引き寄せていただきなさい。この大いなる愛のために働きなさい。そうすれば、その愛がすべての人、とりわけ「遠く離れている」人に届くでしょう。地理的に遠くにいる人もいれば、神と無縁な生き方ゆえに離れている人もいます。福音をまだ個人的に受け入れていない人もいれば、信仰を受け入れたにもかかわらず神が存在しないかのように生きている人もいます。わたしたちの心をあらゆる人に向けて開きましょう。純真に、敬意をもって対話しましょう。その対話が真の友情のうちに行われるなら、実りがもたらされるでしょう。わたしたちが手を差し伸べるよう招かれている「民」は、他国の人ばかりではありません。家庭、共同体、勉学や労働の場、友人の集まり、自由な時間を過ごす場など、わたしたちの生活のさまざまな場にいる人々です。福音の喜ばしい告知は、例外なく、わたしたちの生活のあらゆる領域で行われるべきです。
 わたしは、皆さんの宣教活動がとりわけ必要とされている二つの分野に注目したいと思います。親愛なる若者の皆さん、第一に、それはソーシャル・コミュニケーション、とくにインターネットの分野です。前に申し上げたように、「通信と情報の技術を伴う新たな環境にあるこの文化に、皆さんが人生を築き上げる基となった価値観を伝えてください。……この『デジタル大陸』での宣教活動の責任を担うのはまさに、新しい通信手段にごく自然に親しんでいる若い人々です」(第43回世界広報の日教皇メッセージ、2009年5月)。これらの媒体を賢明に用いる方法を学んでください。それらにひそむ危険、とりわけ、依存性、現実と仮想の混同、インターネット上の会話が直接的な人との出会いに取って代わる危険に気づいてください。
 第二の分野は、旅行と移住です。最近、ますます多くの若者が、時に勉学や仕事のため、またある時はレジャーのために旅行しています。わたしは、何百万もの人々を巻き込む移住現象のことも考えます。その多くが若者ですが、彼らは経済的あるいは社会的理由によって他の地域や国に移住しています。ここにも、福音を分かち合うための摂理的機会を見いだすことができます。若者の皆さん、こうした状況においても、恐れずに皆さんの信仰をあかししてください。皆さんがキリストと出会う喜びを伝えれば、それは相手にとって貴重なたまものとなるのです。

5.わたしの弟子にしなさい
 皆さんはしばしば、同世代の仲間を信仰の体験に招くことに困難を感じることでしょう。ご存じのように、非常に多くの若者が、とりわけ人生のある特定の時期において、キリストを知り、福音の価値観のもとに生きることを望みながらも、自分が不適切で能力不足だと感じています。わたしたちにできることは何なのでしょうか。第一に、皆さんが彼らのかたわらにいて、あかしすることこそが、神が彼らの心に触れるすべとなります。キリストを告げ知らせることは、ことばの問題だけではなく、生活全体にかかわる、愛のしるしとして表現されるものです。わたしたちを宣教者にするのは、キリストがわたしたちの心に注ぎ込んだ愛にほかなりません。したがって、わたしたちの愛は、ますますキリストご自身の愛のようになっていかなければなりません。わたしたちは、よいサマリア人のように、出会った人に注意を払い、耳を傾け、理解し、助けるよう、つねに備えているべきです。このようにして、わたしたちは真理といのちの意味を求める人を神の家へ、希望と救いが待つ教会へと導くことができるのです(ルカ10・29−37参照)。親愛なる友人の皆さん、他者のために最初にできる愛のわざは、わたしたちの希望の源の分かち合いであることを、決して忘れないでください。もし、神のことを分かち与えないなら、与えることはほとんどありません。イエスは弟子たちに命じます。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28・19—20)。「弟子にする」ためのおもな手だては、洗礼とカテケージスです。それは、福音を伝えている相手を、とりわけみことばと秘跡のうちに、生きておられるキリストとの出会いへと導くことを意味します。こうして、彼らはキリストを信じ、神を知り、神の恵みのうちに生きることができるようになります。わたしは、皆さん一人ひとりが、次のように自問するよう望みます。わたしは、洗礼を受けていない若者に勇気をもって洗礼を勧めたことがあるだろうか。キリスト教信仰を見つける旅に出ようとだれかを誘ったことがあるだろうか。親愛なる友人の皆さん、同世代の仲間にキリストと出会うよう勧めることを恐れないでください。聖霊の助けを願い求めてください。聖霊は、より深くキリストを知り、愛するよう皆さんを導き、福音を広めるうえで創造的になる手だてを示してくれるでしょう。

6.信仰にしっかりとどまりなさい
 福音宣教において困難に直面するとき、皆さんはおそらく、預言者エレミヤのように、こう言いたくなるでしょう。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語ることばを知りません。わたしは若者にすぎませんから」。しかし、神も皆さんに言うでしょう。「若者にすぎないといってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行きなさい」(エレミヤ1・6−7)。信仰を告げ知らせ、あかしするにあたり、自分の未熟さ、無力さ、弱さを感じるたびに恐れを抱かないでください。福音宣教はわたしたちが主導するものでも、わたしたちの才能によるものでもありません。それは、神の呼びかけに対する忠実で従順な応答です。したがって、それはわたしたちの力ではなく神の力に基づいています。聖パウロは体験からこのことを知っていました。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちからでたものでないことが明らかになるために」(二コリント4・7)。
 ですから、わたしは祈りと秘跡に根ざすよう皆さんにお願いします。真の福音宣教は祈りから生まれ、祈りによって支えられます。神について語れるようになるためには、まず、神と語り合わなければなりません。わたしたちは、自分が遣わされた先の人々を、祈りのうちに主にゆだね、彼らの心に触れてくださいと主により頼みます。この人々のために、わたしたちをあなたの救いの道具にしてくださいと聖霊に願います。また、あなたのことばをわたしたちの口にのぼらせ、愛のしるしにしてくださいとキリストに願います。わたしたちは、より広い観点から、全教会の宣教のために祈ります。イエスがはっきりとわたしたちに求めているとおりです。「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(マタイ9・38)。皆さんの信仰生活とキリスト者としてのあかしの源を、感謝の祭儀のうちに見いだしてください。毎週、日曜日のミサと可能なときには週日のミサに必ず参加してください。ゆるしの秘跡を頻繁に受けてください。それは、愛のうちにわたしたちを受け入れ、ゆるし、心を新たにしてくださる神のいつくしみとの非常に特別な出会いです。堅信の秘跡をまだ受けていない場合は、それを受けるよう努め、注意深く、熱意をもってその備えをしてください。堅信は、感謝の祭儀と同じように、宣教の秘跡です。なぜなら、恐れずに信仰を告げ知らせるための聖霊の力と愛は、その秘跡を通してわたしたちに与えられるからです。わたしはまた、聖体礼拝を行うよう皆さんにお勧めします。聖体のうちに現存するイエスに耳を傾け、対話する時間は、宣教の熱意を新たにする源になります。
 皆さんがこのような道筋をたどるなら、みことばに完全かつ忠実に従い、誠実に勇気をもってキリストをあかしする力を、キリストご自身がお与えになるでしょう。とりわけみことばが拒絶や敵対に直面するとき、皆さんは時には、忍耐のあかしを示すよう求められます。世界のある地域には、信教の自由がないために、キリストへの信仰を公にあかしできずに苦しんでいる若者もいます。彼らの中には、教会の一員であるがゆえに、すでにそのいのちを対価として支払った者もいます。信仰にしっかりとどまり、どんな試練にあってもキリストは皆さんのかたわらにいると信じてください。イエスは皆さんにも語りかけています。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」(マタイ5・11-12)。

7.全教会とともに
 親愛なる若者の皆さん。どこに遣わされても、キリスト教の信仰をしっかり伝えるためには、教会が必要です。一人で福音をあかしできる人はいません。イエスは弟子たちを一団として宣教へと派遣しました。イエスは、「わたしの弟子にしなさい」と複数の弟子に言われたのです。わたしたちはつねに、キリスト教共同体の一員としてあかしします。そして、わたしたちの宣教は、教会における一致によって実り豊かなものとなります。わたしたちが互いに愛し合い、一致するならば、それによってわたしたちがキリストの弟子であることを、皆が知るようになるのです(ヨハネ13・35参照)。キリスト教共同体、小教区、教会活動が、すばらしい福音宣教活動を行っていることを、わたしは神に感謝します。こうした福音宣教の実りは、全教会のものです。イエスが「一人が種をまき、別の人が刈り入れる」(ヨハネ4・37)といわれたとおりです。
 ここで、わたしは、地の果てまで福音を告げ知らせることに自らを完全にささげた宣教者の偉大な業績に感謝せずにはいられません。また、イエス・キリストが告げ知らされ愛されるために、自らを与え尽くしている司祭と奉献生活者についても主に感謝します。これらの召命に向けて熱意をもって歩むよう神に呼ばれている若者を、わたしはここで勇気づけたいと思います。「受けるよりは与えるほうが幸いである」(使徒言行録20・35)。イエスに従うためにすべてを捨てた人は、その百倍もの報いを受け、永遠のいのちを受け継ぐのです(マタイ19・29参照)。
 わたしは、キリストが愛され、仕えられ、神の国が広がるために、家庭や職場など、どこにいても、日常生活を宣教活動として過ごすよう最善を尽くしている信徒の皆さんにも感謝します。そして、とりわけ教育、医療、ビジネス、政治、金融、その他多くの信徒使徒職の分野で働いている皆さんに思いを寄せます。キリストは皆さんの献身とあかしを必要としています。たとえどんなに困難で、理解を得られなくても、キリストの福音を至るところで伝える意欲を失わないでください。皆さん一人ひとりが、福音宣教という大きなモザイク画の貴重な一片なのです。

8.「主よ、わたしがここにおります」
 親愛なる若者の皆さん、わたしは最後に、福音を告げ知らせなさいというイエスの呼びかけに、心の底から耳を傾けるようお願いしたいと思います。リオデジャネイロのあの大きなあがない主キリストの像が表すように、キリストの心は愛をもって人間一人ひとりに開かれ、その両腕は皆に差し伸べるために広く開かれています。皆さんもイエスの心と両腕になってください。行って、イエスの愛をあかししてください。すべての人に開かれた心と愛に駆り立てられ、新しい世代の宣教者となってください。聖フランシスコ・ザビエルを始めとする教会の数多くの偉大な宣教者の模範に倣ってください。
 ワールドユースデー・マドリード大会の終わりに、わたしは、さまざまな大陸から宣教へと向かう若者たちを祝福しました。彼らは預言者イザヤのことばに共感するすべての若者を代表していました。預言者イザヤは主にいいます。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ6・8)。教会は皆さんを信頼し、皆さんがもたらす喜びと力に感謝します。皆さんの才能を、福音を告げ知らせるために惜しみなく発揮してください。聖霊は、宣教活動に心を開く人に注がれることをわたしたちは知っています。恐れないでください。世の救い主であるイエスは、世の終わりまで、いつもわたしたちとともにいます(マタイ28・20参照)。
 親愛なるラテンアメリカの若者の皆さん、全世界の若者に向けたこの呼びかけは、とりわけ皆さんにとって意義深いものです。2007年にアパレシーダで行われた第5回ラテンアメリカ司教総会において、司教団は「大陸における宣教」を開始しました。南アメリカにおいては、人口の大多数を占める若者が、教会と社会の重要で貴重な財産となっています。宣教の最前線に立ってください。ワールドユースデーをラテンアメリカに再び迎えようとする今、わたしは、世界中から訪れる同世代の仲間たちに信仰の情熱を伝えるよう、この大陸の若者の皆さんにお願いします。
 アパレシーダの聖母やグアダルペの聖母と呼ばれる、新しい福音宣教の星である聖母マリアが、神の愛のあかし人として宣教する皆さん一人ひとりに寄り添ってくださいますように。わたしは特別な愛情を込めて、皆さんに使徒的祝福を送ります。

バチカンにて
2012年10月18日
教皇ベネディクト十六世

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