教皇フランシスコの最初の一般謁見演説 聖週間について

3月27日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの最初の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は典礼暦年の中心である聖週間について解説しました。以下はその全文です(原文イタリア語)。 謁見 […]

3月27日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの最初の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は典礼暦年の中心である聖週間について解説しました。以下はその全文です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇はイタリア語で次の呼びかけを行いました。
「このときも中央アフリカ共和国で起こっている出来事を懸念をもって見守っています。わたしはすべての苦しむ人々、とくに犠牲者の家族、けがをした人、家を失った人、避難を余儀なくされた人のために祈ることを約束したいと思います。ただちに暴力と略奪をやめ、一刻も早く危機を政治的に解決するよう呼びかけます。それは、長期にわたる紛争と分裂を特徴とする、愛する国中央アフリカに平和と一致を回復するためです」。
中央アフリカでは反政府武装勢力のセレカが3月23日(土)以降、首都バンギに侵攻し、24日には大統領府など首都の拠点を制圧し、フランソワ・ボジゼ・ヤングヴォンダ大統領は国外に逃れたと報じられています。
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 兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 最初の一般謁見に皆様をお迎えできてうれしく思います。わたしは深い感謝と尊敬をもって、愛する前任者であるベネディクト十六世の手から「あかし」を受け取りました。復活祭の後、わたしは「信仰年」に関する講話を再開します。今日は聖週間についてすこしだけ考えてみたいと思います。わたしたちは枝の主日から、典礼暦年全体の中心であるこの聖週間を始めました。聖週間の間、わたしたちはイエスの受難と死と復活に同伴します。
 ところで、聖週間を過ごすとは、わたしたちにとって何を意味するのでしょうか。カルワリオ(されこうべ)での十字架と復活への道をイエスに従うとは、どういうことでしょうか。イエスは地上で宣教する間、聖地の道を歩みました。イエスは素朴な十二人に呼びかけました。わたしとともにとどまり、わたしとともに歩み、わたしの使命を継続しなさいと。イエスは神の約束への信仰に満ちた人々の中から、十二人を選びました。イエスは分け隔てなく、すべての人に語りかけました。身分の高い人にも身分の低い人にも。金持ちの若者にも貧しいやもめにも。権力のある人にも無力な人にも。イエスは神のあわれみとゆるしをもたらしました。イエスはいやし、慰め、理解しました。イエスは希望を与えました。すべての人に神がともにいてくださることを伝えました。神は、いつくしみ深い父母が子どもの一人ひとりを心にとめるのと同じように、すべての人を心にとめます。神は人々が自分のところに来るのを待っていませんでした。むしろ神が、基準も条件もなしに、わたしたちのもとに来られました。神はこのようなかたです。いつも最初に歩き出すのは神です。神がわたしたちにもとに来られます。イエスはごく普通の人々と同じ日常生活を過ごしました。イエスは牧者のいない群れのような群衆を見て心を動かされました。兄弟ラザロが死んで悲しむマルタとマリアの前で涙を流しました。徴税人を自分の弟子になるよう招きました。友の一人に裏切られました。神はイエスのうちに、ご自分がわたしたちとともに、わたしたちのただ中にいてくださることを確信させてくださいました。イエスはいわれました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない」(マタイ8・20)。イエスには家がありませんでした。イエスの家は民だからです。わたしたちだからです。イエスの使命は、すべての人に神の門を開く、神の愛の現存となることだからです。
 聖週間の間、わたしたちはこの歩みの頂点を体験します。それは、神と人類の関係の歴史全体にかかわる、愛の計画の頂点です。イエスはエルサレムに入り、ご自分の生涯全体を要約する、最後の歩みを進めます。イエスはご自分を完全にささげます。何も、すなわち、ご自分のいのちさえ、自分のために残しません。イエスは最後の晩餐で、ご自分の友とパンを分け合い、「わたしたちのため」の杯を与えます。神の子はわたしたちにご自身をささげます。わたしたちの手にご自分のからだと血を与えます。それは、彼が永遠にわたしたちとともにいて、わたしたちのただ中に住むためです。イエスはオリーブの園でも、ピラトの前で裁かれるときも、抵抗することなく、ご自身をささげます。イエスは、イザヤが予告した、死に至るまで自分を与え尽くす、苦難のしもべです(イザヤ53・12参照)。
 イエスは、ご自分がいけにえとされるこの愛を、受け身のしかたで、ある種の運命のように生きたのではありません。確かにイエスはむごたらしい死を前にして深く人間的な恐れを隠そうとしません。しかし彼は、完全な信頼をもって御父に身をゆだねます。イエスは進んでご自分を死にゆだねます。それは、御父のみ心と完全に一致しながら、父である神の愛にこたえ、わたしたちに対する神の愛を示すためです。イエスは十字架上で「わたしを愛し、わたしのために身をささげられた」(ガラテヤ2・20)のです。わたしたちは皆、こういうことができます。イエスはわたしを愛し、わたしのために身をささげられました。わたしたちは皆、「わたしのために」ということができるのです。
 これらすべてのことは、わたしたちにとって何を意味するのでしょうか。答えはこれです。これは、わたしの道でもあり、あなたの道でもあり、わたしたちの道でもあるということです。イエスに従いながら聖週間を過ごすとは、気持ちだけで行うことではありません。イエスに従いながら聖週間を過ごすとは、先日の日曜日に申し上げたとおり、自分自身から出かけていくことを学ぶことです。そして、他の人々と出会いに行くことです。疎外された人々のところに行くことです。自ら、兄弟姉妹のところに行くことです。とくに、遠く離れた人、人々から忘れられた人、理解と慰めと助けを必要としている人のところに行くことです。あわれみ深く、愛に満ちたイエスが、生きてともにいてくださることを伝えることが、きわめて必要とされています。
 聖週間を過ごすとは、ますます神の考え方に歩み入ることです。十字架の考え方に歩み入ることです。それは最初から苦しみと死に基づく考え方ではなく、むしろ、愛と、いのちをもたらす自己贈与の考え方です。それは福音の考え方に歩み入ることです。キリストに従うこと、キリストとともに歩むこと、キリストのもとにとどまることは、「脱け出る」ことを求めます。それは、自分自身から脱け出ること、惰性の、習慣的な信仰から脱け出ること、自分の枠組みに閉じこもる誘惑から脱け出ることです。自分の枠組みに閉じこもるなら、神の創造的なわざの開く展望を閉ざしてしまうからです。神はご自身から抜け出て、わたしたちのただ中に来てくださいました。神はわたしたちの間に天幕を張り、救いと希望をもたらすご自身のあわれみを示してくださいました。わたしたちも、キリストに従い、キリストのもとにとどまりたいなら、九十九匹の羊の囲いの中にとどまることに甘んじていてはなりません。「出かけていき」、キリストとともに、遠くにいる見失った羊を捜さなければなりません。イエスと同じように、イエスのうちにご自身から出た神と同じように、イエスがわたしたち皆のためにご自身から脱け出たのと同じように、わたしたちも自分自身から脱け出ること――このことを肝に銘じなければなりません。
 次のようにいう人がいるかもしれません。「でも神父様。わたしには時間がありません」。「わたしにはしなければならないことがたくさんあります」。「それは困難です」。「わずかな力しかなく、罪と多くのことを抱えたわたしに、何ができるというのでしょうか」。多くの場合、わたしたちは、すこしの祈りを唱え、上の空で気の向いたときに主日のミサに参加し、多少の愛のわざを行って満足します。しかし、キリストを伝えるために「出かけていく」勇気はありません。わたしたちはある面で聖ペトロに似ています。イエスが、受難と死と復活や、自分をささげる、すべての人のための愛について語るやいなや、使徒ペトロはイエスを脇へお連れして、いさめました。イエスのいわれたことは、ペトロの計画を覆し、受け入れがたいものに思われたからです。それは、これまで築いてきた確信や、メシアについての理想を揺るがすからです。するとイエスは弟子たちを見ながら、ペトロに向けて福音書の中でもっとも厳しいことばを述べます。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(マルコ8・33)。神はつねにあわれみをもってものを考えます。このことを忘れてはなりません。神はつねにあわれみをもってものを考えます。神はあわれみ深い父です。神は放蕩息子の父親のようにものを考えます。父親は息子の帰りを待ちわび、息子を迎えに出て、まだ遠く離れていたのに、息子が帰って来たのを見いだします。これはどういうことでしょうか。父親は、息子が家に帰って来たかどうかを確かめに、毎日出かけます。これがわたしたちのあわれみ深い父です。それは、父親が、家の縁側から息子の帰りを心から待ち望んでいることを示します。神はサマリア人のようにものを考えます。サマリア人は、半殺しにされた人に同情しながらそばを通り過ぎたり、向こう側から見ているようなことをせず、何の見返りも求めずにその人を助けます。彼は、その人がユダヤ人か異邦人かサマリア人か、金持ちか貧乏人かを尋ねません。彼は何も尋ねないのです。彼はこのようなことを何も尋ねません。ただ、行って、その人を助けます。これが神です。神は、羊を守り、救うために、自分のいのちを捨てる羊飼いと同じように、ものを考えます。
 聖週間は、主が与えてくださった恵みの時です。それは、わたしたちの心、人生、小教区――多くの小教区が門を閉ざしているのは、なんと残念なことでしょう――、運動団体、キリスト信者の会が「門を開く」ためです。他の人々と出会うために「出かけていき」、彼らに近づいて、わたしたちの信仰の光と喜びを伝えるためです。いつも出かけていくことです。ところで、出かけていくとき、神の愛と柔和さをもたなければなりません。尊敬の心と忍耐をもたなければなりません。そして、わたしたちが自分の手と足と心をささげても、それらを導き、わたしたちのすべてのわざを実り豊かなものとしてくださるのは神であることを知らなければなりません。
 どうか皆様がこの日々をよく過ごしてくださいますように。勇気をもって主に従い、出会う人々に対する主の愛の光を心に携えてください。 

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