教皇フランシスコの2回目の一般謁見演説 イエスの復活

4月3日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの2回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、ベネディクト十六世の辞任により2月6日の一般謁見で中断していた「信仰年」の連続講話を再開し […]

4月3日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの2回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、ベネディクト十六世の辞任により2月6日の一般謁見で中断していた「信仰年」の連続講話を再開しました。以下はその全文です(原文イタリア語)。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 今日から「信仰年」の講話を再開します。「信条」の中でわたしたちは次のことばを繰り返し唱えます。「聖書にあるとおり三日目に復活し」。まさにこの出来事をわたしたちはまさに今祝っているところです。キリスト教のメッセージの中心である、イエスの復活は、最初から響き渡り、伝えられて、わたしたちにまで達しました。聖パウロはコリントの信徒に向けて述べます。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(一コリント15・3-5)。この短い信仰告白は、復活した主のペトロと十二人への現れをもって、過越の神秘を告げます。イエスの死と復活こそが、わたしたちの希望の中心です。イエスの死と復活への信仰がなければ、わたしたちの希望は無力なものとなり、希望といえなくなります。イエスの死と復活こそが、わたしたちの希望の中心なのです。使徒パウロはいいます。「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」(17節)。残念ながら、イエスの復活への信仰をあいまいにしようとする試みがしばしば行われます。信者の間にさえも疑いが忍び入っています。それはいわば「薄い」信仰であり、力強い信仰ではありません。こうした軽薄な考え方のゆえに、また時として無関心のゆえに、あるいは水平的な人生観のゆえに、人々は信仰よりも重要に思われる多くのものに心を奪われます。しかし、わたしたちの心を偉大な希望へと開くのは、復活です。なぜならそれは、わたしたちの人生とこの世の生活を、神の永遠の未来へと、完全な幸福へと開くからです。悪と罪と死に打ち勝つことができるという確信へと開くからです。この確信によって、わたしたちは深い信頼をもって日々の現実を生き、勇気をもって献身的に現実に立ち向かうことができるようになります。キリストの復活は新たな光で日々の現実を照らします。キリストの復活こそがわたしたちの力です。
 しかし、キリストの復活への信仰の真理は、どのようにしてわたしたちに伝えられたのでしょうか。新約には二種類の証言が見られます。ある証言は信仰告白の形式をとります。すなわち、信仰の中心を示す要約的な定式です。これに対して、もう一種類の証言は、復活とそれにかかわる出来事についての物語の形式をとります。第一の、信仰告白の形式は、たとえば、たった今朗読されたもの(一コリント15・3-5参照)、あるいはローマの信徒への手紙にあるものです。この手紙の中で聖パウロは述べます。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」(ローマ10・9)。教会の歩みの最初から、イエスの死と復活の神秘への信仰はきわめて堅固で明白なものでした。しかし、今日わたしは第二の形式、すなわち物語の形式での証言を考察したいと思います。これは福音書に見られるものです。何よりもまずわたしたちは、この出来事の最初の証人が女性だったことに気づきます。彼女たちは、朝早く、イエスのからだに香油を塗るために墓に行って、空の墓という、最初のしるしを認めました(マルコ16・1参照)。続いて彼女たちは神の使者と出会い、次のように告げられます。十字架につけられたナザレのイエスは復活した(5-6節参照)。女性たちは愛に促され、この知らせを信仰をもって受け入れました。彼女たちは信じて、この知らせを自分の中にとっておかずに、すぐに伝えます。人は、イエスが生きていることを知った喜び、心を満たす希望を抑えることができません。このことはわたしたちの人生の中でも起こらなければなりません。キリスト信者であることの喜びを感じようではありませんか。わたしたちは、悪と死に打ち勝った、復活した主を信じます。この喜びと光を、自分たちの人生のあらゆる場所に伝えるために「出かけていく」勇気をもとうではありませんか。キリストの復活はわたしたちの最も深い確信です。それはもっとも貴い宝です。この宝と確信を他の人と分かち合わずにいられるでしょうか。それはわたしたちだけのものではなく、伝え、人々に与え、人々と分かち合うべきものです。これがわたしたちのあかしです。
 もう一ついうべきことがあります。新約の信仰告白において、復活の証人として思い起こされるのは、男性と使徒たちだけで、女性ではありません。これは、当時のユダヤ教の律法に従えば、女性と子どもは、信頼でき信憑性のある証言を行うことができないとされたためです。しかし、福音書において、女性は第一の根本的な役割を果たします。わたしたちはここに復活の歴史性を支持する一つの要素を見いだすことができます。もし復活が捏造されたものなら、当時の状況において、それが女性の証言と結びつけられることはなかったでしょう。これに対して、福音書は、起こったことを単純に物語ります。最初の証人は女性たちです。これは、神が人間的な基準で人を選ばないことを示します。イエスの誕生の最初の証人は、素朴で身分の低い、羊飼いです。復活の最初の証人は、女性たちです。これはすばらしいことです。イエスが生きておられること、生けるかたであること、復活したことを、子どもに、孫にあかしすること――これがある意味で女性の使命です。母親、また女性としての使命です。母親と女性の皆様。行って、このあかしをしてください。神にとって大切なのは心です。わたしたちが神に心を開き、幼子のように自分をゆだねることです。しかしこのことはまた、教会と信仰の歩みの中で、昔も今も、女性たちが、主に門を開き、主に従い、主のみ顔を伝える上で、特別な役割を果たしてきたことを考えさせてくれます。信仰のまなざしは、つねに単純で深い愛に満ちたまなざしを必要とするからです。使徒や弟子たちは信じるために大きな困難を覚えました。女性たちは違います。ペトロは墓に走っていきましたが、空の墓を前にして立ち止まりました。トマスは手でイエスのからだの傷に触れなければなりませんでした。わたしたちの信仰の歩みにおいても、神がわたしたちを愛してくださることを知り、感じることが大切です。神を愛することを恐れてはなりません。信仰は、口と心で、ことばと愛で言い表されます。
 女性への現れの後に、他の人々への現れが続きます。イエスは新たなしかたで現存します。イエスは十字架につけられたかたですが、そのからだは栄光のからだです。イエスは地上のいのちへと生き返ったのではなく、新たな状態となりました。人々は初めイエスだと分からず、イエスのことばとわざを通じて彼らの目が開かれました。復活した主との出会いは、わたしたちを造り変え、信じるための新たな力と揺るぎない土台を与えます。わたしたちにも、復活した主を認めるための多くのしるしがあります。聖書、聖体、他の秘跡、復活した主の光を伝える愛のわざです。キリストの復活によって照らしていただこうではありませんか。キリストの力によって造り変えていただこうではありませんか。それは、世にあるわたしたちを通じても、死のしるしがいのちのしるしに取って変わられるためです。この広場には多くの若者がおられます。よくおいでくださいました。皆様に申し上げます。主は生きておられ、人生においてわたしたちに寄り添って歩んでくださいます。この確信を伝えてください。それが皆様の使命です。この希望を伝えてください。この希望に錨(いかり)を降ろしてください。それは天上への希望でもあります。しっかりと舫(もや)い綱を握り、錨を降ろし、希望を伝えてください。イエスの証人である皆様。イエスが生きていることをあかししてください。それがわたしたちに希望を与えます。それが、戦争と悪と罪のためにある意味で年老いたこの世に希望を与えます。若者よ、進んで行きなさい。

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