教皇フランシスコの2013年4月7日の「アレルヤの祈り」のことば 信じることの幸い

教皇フランシスコは、復活節第二主日の4月7日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「アレルヤの祈り」(復活祭から聖霊降臨の主日まで「お告げの祈り」の代わりに唱えられる祈り)を行いました […]

教皇フランシスコは、復活節第二主日の4月7日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「アレルヤの祈り」(復活祭から聖霊降臨の主日まで「お告げの祈り」の代わりに唱えられる祈り)を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

この日教皇は、午後5時30分からサン・ジョヴァンニ・・イン・ラテラノ大聖堂で、ローマ司教着座ミサを司式しました。
―――

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。今日は。

 今日の主日で「主の復活の八日間」が終わります。この日にあたり、復活したイエスご自身のことばをもって皆様に復活祭のごあいさつを申しあげます。「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20・19、21、26)。このことばは単なる祝福でも、あいさつでもありません。それはたまものです。そればかりか、キリストが死と陰府(よみ)を通過した後に弟子たちに与えた、貴重なたまものです。キリストは約束したとおり、平和を与えます。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」(ヨハネ17・27)。この平和は、悪に対する神の愛の勝利がもたらす実りです。ゆるしがもたらす実りです。まことに、真の、深い平和は、神のあわれみの体験からもたらされます。今日は、福者ヨハネ・パウロ二世の望みによる、神のいつくしみの主日です。ヨハネ・パウロ二世はこの神のいつくしみの主日の前晩に生涯を終えました。
 ヨハネによる福音書は、イエスが、二階の広間に閉じこもっていた使徒たちに二度現れたと語ります。一度目は復活の晩でした。このときはトマスはいませんでした。トマスはいいました。「見て、触れなければ、わたしは決して信じない」。八日後の、二度目にはトマスもいました。イエスはトマスに向かって、傷跡を見て、触れるよう招きました。トマスは叫んでいいます。「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20・28)。するとイエスはいわれました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)。見ないで信じた人々とはどういう人々だったでしょうか。それは、復活したイエスに会わなかったにもかかわらず、使徒たちと女性たちの証言を信じた、他の弟子と、エルサレムの他の人々です。これは信仰にとってきわめて大事なことばです。わたしたちはそれを「信じることの幸い」と呼ぶことができます。見ないのに信じる人は、幸いである。これが信じることの幸いです。あらゆる時代と場所において、教会が告げ知らせ、キリスト信者があかしした神のことばを通じて、イエス・キリストが受肉した神の愛であり、受肉したあわれみであると信じる人は幸いです。これはわたしたち皆にいえることです。
 イエスは使徒たちに、ご自分の平和とともに聖霊を与えます。それは、使徒たちが世に罪のゆるしをもたらすためです。このゆるしは、神だけが与えることができ、御子の血によって与えられました(ヨハネ20・21-23参照)。教会は、復活したキリストにより、人々に罪のゆるしを与えるよう命じられます。そこから愛の国が成長し、人々の心に平和の種が蒔かれます。こうして平和は、人間関係や社会や組織の中でも根づいていきます。また、復活したキリストの霊は使徒たちの心から恐れを取り除き、二階の広間から出て、福音を伝えるよう彼らを促します。わたしたちも、復活したキリストへの信仰をあかしする勇気をもっともたなければなりません。キリスト信者であること、キリスト信者として生きることを恐れてはなりません。行って、復活したキリストを告げ知らせる勇気をもたなければなりません。キリストはわたしたちの平和だからです。キリストが、ご自分の愛とゆるしと血とあわれみをもって、この平和を与えてくださったからです。
 親愛なる友人の皆様。今晩わたしは、ローマ司教の司教座であるサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂でミサをささげます。ご一緒におとめマリアに祈りたいと思います。おとめマリアの助けによって、司教と民が、主のあわれみにつねに信頼しながら、信仰と愛のうちに歩むことができますように。主はいつもわたしたちを待ち、愛し、ご自分の血をもってわたしたちをゆるし、わたしたちがゆるしを求めて訪ねるたびにゆるしを与えてくださいます。主のあわれみに信頼しようではありませんか。

PAGE TOP