教皇フランシスコの3回目の一般謁見演説 救いをもたらす復活の意味

4月10日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの3回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、4月3日から再開した「信仰年」の連続講話の2回目として、「三日目に復活し――救いをもたら […]

4月10日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの3回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、4月3日から再開した「信仰年」の連続講話の2回目として、「三日目に復活し――救いをもたらす復活の意味」について解説しました。以下はその全文です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇はイタリア語で、イランで起きた地震に関して次の呼びかけを行いました。
「大きな地震がイラン南部を襲い、死者と多数のけが人と深刻な損害をもたらしたという知らせを聞きました。犠牲者のために祈るとともに、この災害の被災者のかたがたに寄り添います。イランのすべての兄弟姉妹のために祈ってください」。
イラン南部では4月9日(火)午後4時22分(日本時間同日午後8時22分)頃、マグニチュード6.3の地震があり、死者数は10日までに37人に達しました。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 前回の講話で、イエスの復活という出来事を考察しました。この出来事の中では、女性が特別な役割を果たしました。今日は復活の救いをもたらす意味について考えてみたいと思います。復活はわたしたちの人生にとってどのような意味をもつでしょうか。復活がなければわたしたちの信仰がむなしいのはなぜでしょうか。わたしたちの信仰はキリストの死と復活を基盤とします。それは家が土台の上に立っているのと同じです。土台が崩れると、家全体が倒れます。イエスは十字架上でご自身をささげて、わたしたちの罪を身に負い、死の淵に降りました。そして彼は復活によって罪と死に打ち勝ち、これらを取り去って、新しいいのちへとよみがえるための道をわたしたちに開いてくださいました。聖ペトロは手紙一の初めに、このことを要約して述べます。たった今朗読されたとおりです。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かなあわれみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(一ペトロ1・3-4)。
 使徒ペトロはわたしたちにいいます。イエスの復活により、あるまったく新たなことが起こります。わたしたちは罪の奴隷状態から解放され、神の子となります。こうしてわたしたちは新たないのちへと生まれます。このことはいつわたしたちに実現するのでしょうか。洗礼の秘跡においてです。古代においては、洗礼は普通、浸水礼によって授けられました。受洗者が、服を脱いで、大きな洗礼盤の中に降ると、司教ないし司祭は受洗者の頭の上に三回、水を注ぎながら、父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授けました。その後、洗礼を受けた人は洗礼盤を出て、新しい白い衣をまといました。洗礼を受けた人は、キリストの死と復活に身を浸すことにより、新しいいのちに生まれたのです。神の子となったのです。聖パウロはローマの信徒への手紙の中でこう述べます。「あなたがたは・・・・神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ8・15)。洗礼によってわたしたちが受けた霊が、わたしたちを教え、「父よ」と、より正確にいえば「アッバ」と神に呼びかけるよう促します。「アッバ」とは「パパ」を意味します。わたしたちの神はこのようなかたです。神はわたしたちにとってパパなのです。聖霊はわたしたちのうちでこの神の子としての新たな状態を実現します。これが、イエスの過越の神秘によってわたしたちが与えられる最大のたまものです。神はわたしたちを子として扱われます。神はわたしたちを理解し、ゆるし、抱きとめ、たとえわたしたちが過ちを犯してもわたしたちを愛してくださいます。すでに旧約において、預言者イザヤははっきりといいます。たとえ母親が子を忘れようとも、神がわたしたちを忘れることは決してありません(イザヤ49・15参照)。これはすばらしいことばです。
 しかしながら、このような神との子としての関係は、わたしたちが人生の片隅にとっておく宝物のようなものではありません。むしろわたしたちはそれを、神のことばに耳を傾け、祈り、秘跡、とくにゆるしの秘跡と聖体にあずかり、そして愛のわざを行うことを通じて、日々、成長させ、深めていかなければなりません。わたしたちは子として生きることができます。これがわたしたちの尊厳です。わたしたちは子としての尊厳をもっているのです。まことの子として振る舞おうではありませんか。これは、日々、キリストに自分を造り変えていただき、キリストに似た者としていただくことです。自分に限界や弱さがあることを認めながらも、キリスト信者として生き、キリストに従おうと努めることです。神を脇に置いて、自分を中心にしたいという誘惑はつねに存在します。また、罪の体験は、わたしたちのキリスト教的生活を、神の子であることを傷つけます。だからわたしたちは信じる勇気をもたなければなりません。心の中でささやきかける次のようなことばに導かれてはなりません。「神は無用のもので、あなたにとって大切なことではない」。事実はその反対です。自分の失敗や罪によってくじけることなく、神に愛されていることを感じながら、神の子として振る舞うことによって初めて、わたしたちの人生は新たなものとなり、落ち着きと喜びによって導かれます。神こそわたしたちの力です。神こそわたしたちの希望です。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちはだれよりもこの希望に堅く根ざし、すべての人に対してこの希望の目に見える、はっきりとした、輝かしいしるしとならなければなりません。復活した主は、なくなることも欺くこともない希望です(ローマ5・5参照)。希望は決して欺くことがありません。この希望は主から来るからです。わたしたちは人生の中で、何度、希望を失ったことでしょうか。何度、心に抱いた期待が実現しなかったことでしょうか。わたしたちキリスト信者の希望は、地上においても力強く、安定し、堅固であり、永遠のいのちへと開かれています。神がこの地上を歩むよう招いてくださったからです。この希望は、つねに忠実な、神を土台としているからです。わたしたちは次のことを忘れてはなりません。神はつねに忠実なかたです。神はつねにわたしたちに忠実です。朽ちることのない財産を受け継ぐために、洗礼を通じて、信仰のたまものによって、キリストとともに復活させられたわたしたちは、ますます神のことを求め、神を思い、神に祈るよう導かれます。キリスト信者であるとは、単におきてを守ることではありません。むしろそれは、キリストのうちにあって、キリストのように考え、行い、愛することです。キリストによって人生を支配され、それを造り変えていただき、悪と罪の暗闇から解放してもらうことです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちの抱いている希望について説明を要求する人に(一ペトロ3・15参照)、復活したキリストを示そうではありませんか。ことばで告げ知らせるだけでなく、何よりも自分たちの復活のいのちをもって、復活したキリストを示そうではありませんか。神の子である喜びと自由を示そうではありませんか。まことの自由である、キリストのうちに生きることによって与えられる自由を。悪と罪と死の奴隷状態からわたしたちを救う自由を。わたしたちは、天の祖国を仰ぎ見ることにより、日々の仕事と労苦の中でも新たな光と力を見いだします。これも、わたしたちが世に示さなければならない貴重な奉仕です。世はしばしば目を天に向けることも、神に向けることもできないからです。

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