教皇フランシスコの4回目の一般謁見演説 天に昇って、父の右の座に着き

4月17日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの4回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、4月3日から再開した「信仰年」の連続講話の3回目として、「天に昇って、父の右の座に着き」 […]

4月17日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの4回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、4月3日から再開した「信仰年」の連続講話の3回目として、「天に昇って、父の右の座に着き」について解説しました。以下はその全文です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇はイタリア語で、16日にイランで起きた地震に関して次の呼びかけを行いました。
「イランとパキスタンの国民を激しい地震が襲ったことを聞き、悲しみを覚えます。この地震は死者と苦しみと破壊をもたらしています。犠牲者と苦しみのうちにある人々のために神に祈りをささげます。そして、イランとパキスタンの人々に寄り添います」。
イラン南東部シスタンバルチェスタン州のパキスタン国境付近で4月16日(火)午後3時14分(日本時間同日午後7時44分)頃、マグニチュード7.8の地震があり、パキスタン側で少なくとも40人が死亡しています。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 信条の中には、イエスは「天に昇り、父の右の座に着き」ということばが見いだされます。イエスの地上での生涯は、昇天によって頂点に達します。この昇天のとき、イエスはこの世から御父のところに移り、父の右の座に上げられました。この出来事は何を意味するのでしょうか。それはわたしたちの人生にどのように影響するのでしょうか。父の右の座に着いておられるイエスを仰ぎ見るとは、どういうことでしょうか。このことについて福音書記者ルカに導いてもらいたいと思います。
 イエスがエルサレムへの最後の旅を行う決断をしたときから出発します。聖ルカは注記します。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(ルカ9・51)。聖なる都――そこで、イエスの地上での生涯からの「脱出」が行われるのですが――に「上る」とき、イエスはすでに目的である天を見つめています。しかしイエスは次のことを承知していました。父の栄光への移行は、十字架を通ります。すなわちそれは、人類に対する神の愛の計画に従うことを通るのです。『カトリック教会のカテキズム』はいいます。「イエスが十字架上に上げられることは天に上げられることを示し、また、それを予告しています」(同662)。わたしたちもはっきりと知るべきです。わたしたちのキリスト教的生活においても、神の栄光に入るには、日々、神のみ心に忠実に従わなければなりません。たとえそのことが犠牲や、時として自分の計画を変更することを求めてもです。イエスの昇天は具体的にはオリーブ山で行われました。そこは、イエスが受難の前に退いて祈り、父との深い一致のうちにとどまった場所の近くです。祈りが、神の計画を忠実に果たす恵みを与えてくれることが、あらためて分かります。
 聖ルカは福音書の終わりに、きわめて要約した形で昇天の出来事を語ります。イエスは弟子たちを「ベタニアのあたりまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(24・50-53)。聖ルカはこう述べます。この記事の二つの点に注目したいと思います。まず、昇天のとき、イエスは祝福という祭司のわざを行います。すると弟子たちは、ひれ伏し、ひざまずいて、頭を垂れることによって自分たちの信仰を表します。これが第一の重要な点です。イエスは唯一の永遠の祭司です。この祭司は受難によって死と墓を通って、復活し、天に昇りました。そして父である神のもとにいて、永遠にわたしたちのために執り成してくださいます(ヘブライ9・24参照)。聖ヨハネがヨハネの手紙一で述べるとおり、イエスはわたしたちの弁護者です。これはすばらしい知らせです。人が裁判官に召喚され、裁判を受けるとき、最初にすることは、自分を弁護してくれる弁護士を捜すことです。わたしたちには、永遠にわたしたちを弁護してくださるかたがいます。このかたは、悪魔の誘惑から、わたしたち自身から、わたしたちの罪から、わたしたちを守ってくださいます。親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちにはこの弁護者がいます。このかたのところに行って、ゆるしを願うのを恐れてはなりません。祝福とあわれみを願うのを恐れてはなりません。このかたはつねにわたしたちをゆるしてくださいます。彼はわたしたちの弁護者だからです。永遠にわたしたちを守ってくださるかただからです。このことを忘れてはなりません。それゆえ、イエスの昇天は、わたしたちの旅路にとって深い慰めとなることを教えてくれます。まことの神でありまことの人であるキリストのうちに、わたしたちの人間性は神のもとに運ばれます。キリストはわたしたちに道を開いてくださいました。キリストはザイルでつながれた登山者の先頭のようなかたです。彼は頂上に着くと、わたしたちをご自身へと引き寄せて、神へと導いてくださいます。自分の人生をキリストにゆだね、キリストに導いていただくなら、わたしたちは安心して、確実に手をとってもらえます。わたしたちの救い主であり、弁護者であるかたに手をとってもらえるのです。
 二番目の点はこれです。聖ルカはいいます。使徒たちは、イエスが天に昇るのを見た後、「大喜びで」エルサレムに帰ります。これはある意味で不思議なことに思われます。普通、決定的な別離、とくに死によって自分の家族や友人と別れたとき、わたしたちは自然に悲しみを覚えます。別れた人の顔を見、声を聞き、その愛情と存在を感じることができなくなるからです。これに対して、福音書記者は使徒たちの深い喜びを強調します。使徒たちはなぜ喜んだのでしょうか。それは、彼らが信仰の目をもってこう悟ったからです。たとえ自分たちの目から見えなくなっても、イエスは永遠に自分たちとともにいてくださいます。イエスは自分たちを見捨てたのではなく、父の栄光のうちに自分たちを支え、導き、自分たちのために執り成してくださいます。
 聖ルカは使徒言行録の冒頭でも、昇天の出来事について語ります。それは、この出来事が、イエスの地上での生涯と教会の生活をつなぎ、結びつける輪のようなものであることを強調するためです。ここで聖ルカは、弟子たちがキリストが神のもとに昇るのを見つめていたとき、イエスを弟子たちの目から見えなくした雲にも言及します(使徒言行録1・9-10参照)。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、彼らを招きます。じっと天を見つめたままでいるのでなく、次の確信をもって生き、あかししなさい。イエスは天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じありさまで、戻って来られます(使徒言行録1・10-11参照)。これは、キリストが主であることを観想することから出発して、日々の生活の中で福音を伝え、あかしする力をキリストから得るようにという招きにほかなりません。聖ベネディクトゥス(480頃-547/560年頃)が教えるとおり、観想することと行動すること、「祈り、かつ働くこと」(ora et labora)は、ともにわたしたちのキリスト教的生活において必要です。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。昇天は、イエスが不在であることを示すのではなく、むしろイエスがわたしたちのただ中で、新たなしかたで生きておられることを語ります。イエスは昇天以前のときのような、世の特定の場所におられるのではありません。今や彼は神の支配のうちに、あらゆる場所と時間に現存し、わたしたち皆のそばにおられます。わたしたちは人生において決して独りきりではありません。わたしたちには、わたしたちを心にかけ、わたしたちを守ってくださるこの弁護者がいます。わたしたちは決して独りきりではありません。十字架につけられて復活した主が、わたしたちを導いてくださいます。わたしたちには多くの兄弟姉妹がいます。彼らは沈黙のうちに隠れたしかたで、家庭と労働生活によって、問題と困難を抱えながら、喜びと希望のうちに、日々、信仰を生き、わたしたちともに世に伝えています。復活して、天に昇り、わたしたちの弁護者となってくださるイエス・キリストにおける、神の愛の支配を。ご清聴ありがとうございます。

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