教皇フランシスコの5回目の一般謁見演説 キリストの再臨

4月24日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの5回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、4月3日から再開した「信仰年」の連続講話の4回目として、「キリストの再臨」について解説し […]

4月24日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの5回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、4月3日から再開した「信仰年」の連続講話の4回目として、「キリストの再臨」について解説しました。以下はその全文です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇はイタリア語で、22日にシリア北部で誘拐された東方教会の二人の主教の解放を求める呼びかけを行いました。
「アレッポのギリシア正教会とシリア正教会それぞれの府主教の誘拐については情報が錯綜していますが、この誘拐は愛する国シリアの悲惨な状況を示すさらなるしるしです。シリアでは暴力と武器が死と苦しみをもたらし続けているからです。祈りのうちで二人の主教を思い起こします。どうか二人が一刻も早く自分の共同体に戻ることができますように。そして神が人々の心を照らしてくださるよう願い求めます。わたしは復活祭の日に述べた切迫した呼びかけを繰り返します。流血がやみ、必要な人道支援が人々に届き、危機の政治的解決が速やかに行われますように」。
アレッポのギリシア正教会府司教のグレゴリオス・イブラヒム師とシリア正教会府主教のパウロ・ヤジギ師は4月22日、人道支援活動中に誘拐され、一緒にいた運転手は殺害されました。二人の安否は依然不明です。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 信条の中で、わたしたちはイエスが「生者と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます」と告白します。人類の歴史は、男と女が神の像と似姿に従って創造されたことから始まり、キリストによる最後の審判で終わります。歴史のこの両端はしばしば忘れられています。とくにキリストの再臨と最後の審判についての信仰は、時としてキリスト信者の心の中であいまいで不確かなことがあります。イエスは公生活の中でしばしばご自分が終わりの日に来られることについて述べました。今日はこの神秘に歩み入る助けとなる、三つの福音書の箇所を考察したいと思います。すなわち、十人のおとめ、タラントン、そして最後の審判についての箇所です。この三つの箇所は皆、聖マタイによる福音書の終わりの時に関するイエスの説教に含まれます。
 まず次のことを思い起こしたいと思います。昇天の後、神の子はご自分が取られたわたしたちの人間性を御父のもとにもたらします。神の子は、すべての人をご自分に引き寄せ、神の開かれたみ手に受け入れられるように全世界を招きます。それは、歴史の終わりに、万物が御父に引き渡されるためです。しかし、キリストの最初の到来と最後の来臨の間には「今の時」が存在します。それがわたしたちの生きている時間にほかなりません。十人のおとめのたとえ話(マタイ25・1-13参照)は、この「今の時」という状況に位置づけられます。十人のおとめは花婿の到着を待っていましたが、到着が遅れ、眠り込んでしまいます。突然、花婿が到着したことが告げられたとき、皆が花婿を出迎える用意をしていましたが、そのうちの賢い五人はともし火をともすための油をもっており、愚かな五人は、油をもっていなかったために、ともし火が消えてしまいました。五人が油を捜している間に花婿は到着し、愚かなおとめたちが戻ると、婚宴の席に入るための戸が閉められていました。おとめたちは何度も戸をたたきましたが、すでに手遅れで、花婿はこたえます。わたしはお前たちを知らない。花婿は主であり、花婿の到着を待っている時間は、主がわたしたち皆に、ご自分の最後の来臨の前に、あわれみと忍耐をもって与えてくださった時間です。それは目を覚ましていなければならない時間です。その間、わたしたちは信仰と希望と愛のともし火をともし続けていなければなりません。善と美と真理に心を開き続けていなければなりません。神に従って生きていなければなりません。なぜなら、わたしたちは、キリストが再臨する、その日、その時を知らないからです。わたしたちに求められているのは、出会う用意をしていることです。イエスとのすばらしい出会いを行う用意をしていることです。そのために、キリストの現存のしるしを見いだし、祈りと秘跡によって信仰を生き生きと保ち、眠り込まず、神を忘れないように、目を覚ましていなければなりません。眠りに落ちたキリスト信者の生活は、悲しい生活です。それは幸福な生活とはいえません。キリスト信者は幸福でなければなりません。イエスの喜びをもたなければなりません。眠り込んではならないのです。
 第二の、タラントンのたとえ話は、神から与えられたたまものの使い方と、神の再臨の関係について考えさせてくれます。再臨のとき、わたしたちは、これらのたまものをどのように用いたか尋ねられるからです(マタイ25・14-30参照)。わたしたちはこのたとえ話をよく知っています。主人が出発前に、すべてのしもべに数タラントンずつを預けます。自分がいない間にそれをよく用いさせるためです。一人には五タラントン、二人目には三タラントン、三人目には一タラントンを預けました。主人の不在中、一人目と二人目のしもべはタラントン(古代の通貨)を増やしますが、三人目は自分のタラントンを土に埋めて、主人にそのまま返すことを選びます。主人は、戻ってくると、それぞれの働きを評価します。彼は一人目と二人目のしもべをほめますが、三人目のしもべは外の暗闇に追い出されます。このしもべが、恐れのゆえにタラントンを隠し、自分の中に閉じこもっていたからです。自分の中に閉じこもり、主が与えたすべてのものを隠しているキリスト信者は、キリスト信者といえません。このキリスト信者は、自分に与えられたすべてのもののゆえに神に感謝しないからです。これはわたしたちに次のことを示します。主の再臨を待つ時間は、行動する時間です。わたしたちは行動する時間の中にいます。この時間の中で、わたしたちは、自分自身のためにではなく、神のため、教会のため、他の人々のために、神のたまものから実りを生み出さなければなりません。つねに世の善を増やすよう努めなければなりません。とくに現代のような危機の時代にあって、大切なのは、自分の中に閉じこもり、自分のタレント、すなわち自分の精神的・知的・物質的な財産を、主が与えてくださったすべてのものを隠すのでなく、心を開き、連帯し、他の人に心を向けることです。このサンピエトロ広場には多くの若者がおられます。本当に多くの若者がおられます。人生の旅路の出発点におられる皆様に尋ねます。皆様は、神が与えてくれたタレントについて考えたことがありますか。タレントを隠してはなりません。偉大な理想、心を広げる理想に賭けてください。奉仕の理想は、皆様のタレントから実りを生み出します。人生は、自分のために大切にしまっておくために与えられたのではなく、それを与えるために与えられたのです。親愛なる若者の皆様。寛大な心をもってください。偉大なことを夢見るのを恐れてはなりません。
 最後に、最後の審判の箇所について一言申し上げます。この箇所は主の再臨について述べます。そのとき主は、生者と死者を含めた、すべての人を裁きます(マタイ25・31-46参照)。福音書で用いられているのは、羊と山羊を分ける牧者というイメージです。牧者の右に置かれるのは、神のみ心に従って行動し、飢えている人、のどが渇いている人、旅をしている人、裸の人、病気の人、牢にいる人を助けた人々です。「旅をしている人」ということばで、わたしはこのローマ教区にいる多くの外国人のことを思い浮かべます。わたしたちはこの外国人のかたがたに何ができるでしょうか。ところで、牧者の左には、隣人を助けなかった人々が置かれます。これは次のことをわたしたちに示します。わたしたちは愛のわざについて、すなわち、わたしたちの兄弟、とくにもっとも弱い人、困窮した人をどのように愛したかについて、神に裁かれるのです。もちろんわたしたちはつねに次のことも心にとめなければなりません。わたしたちは、恵みによって、すなわち、つねにわたしたちに先立つ神の無償の愛によって、義とされ、救われます。わたしたちは自分ひとりでは何もできません。信仰は何よりもまず、わたしたちに与えられるたまものです。けれども、実りをもたらすために、神の恵みはつねにわたしたちが神に心を開くことを求めます。わたしたちの自由で具体的な応答を求めます。キリストが来たのは、救いをもたらす神のあわれみをわたしたちに示すためです。わたしたちに求められているのは、神に信頼し、いつくしみに満ちた生活と、信仰と愛に促されたわざによって、神の愛のたまものにこたえることです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。恐れることなく、最後の審判に目を向けることができますように。それによって、現在の時をよりよく生きるよう促されますように。神があわれみと忍耐をもってこの時を与えてくださったのは、わたしたちが日々、貧しい人、小さな人の中に神を見いだすことを学ぶためです。善のために努力し、祈りと愛のうちに目覚めているためです。わたしたちの生涯と歴史の終わりの日に、主がわたしたちをよい忠実なしもべとして認めてくださることができますように。ご清聴ありがとうございます。

 
 

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