教皇フランシスコの6回目の一般謁見演説 労働者聖ヨセフと聖母月

5月1日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの6回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「労働者聖ヨセフと聖母月」について解説しました。以下はその全文です(原文イタリア語)。 ― […]

5月1日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの6回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「労働者聖ヨセフと聖母月」について解説しました。以下はその全文です(原文イタリア語)。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 今日の5月1日、わたしたちは労働者聖ヨセフを記念し、恒例により聖母にささげられた月を始めます。そこで今日の集いでは、イエスの生涯と教会生活において、またわたしたちの生活においてもきわめて重要なこの二人のかたについて考えてみたいと思います。二つのテーマを簡単に考察します。一つは労働、もう一つはイエスの観想です。
 聖マタイによる福音書の中で、あるときイエスは故郷のナザレに帰り、会堂で話します。その際、同郷の人々がイエスの知恵に驚き、互いにいぶかしんだことが強調されます。「この人は大工の息子ではないか」(マタイ13・55)。イエスは神のわざによってマリアから生まれ、わたしたちの歴史の中に歩み入り、わたしたちのただ中に来られました。しかしその際、養父である聖ヨセフがともにいました。聖ヨセフはイエスを守り、彼に自分の仕事も教えました。イエスは一つの家族の中に、すなわち聖家族の中に生まれ、生活し、ナザレの仕事場で聖ヨセフから大工の仕事を習いました。そして、仕事と労苦、満足と日々の困難をヨセフとともにしました。
 このことはわたしたちに労働の尊厳と重要性を思い起こさせてくれます。創世記が語るとおり、神は男と女を創造し、地に満ちて地を従わせる務めを彼らにゆだねました。地を従わせるとは、地を搾取するのではなく、耕し、守り、自らのわざによって配慮することを意味します(創世記1・28、2・15参照)。労働は神の愛の計画の一部です。わたしたちはすべての造られたよいものを耕し、守るよう招かれています。こうしてわたしたちは創造のわざにあずかるのです。労働は、人格の尊厳にとって根本的な要素の一つです。たとえていうなら、労働はわたしたちに尊厳を「授け」ます。わたしたちを尊厳で満たします。わたしたちを神に似たものとします。神はかつても今も働いておられるからです。神はつねにわざを行われるからです(ヨハネ5・17参照)。労働は自分と家族の生計を維持し、自国の成長に寄与する力を与えます。しかし、ここでわたしは、さまざまな国で、今日、労働と経営の世界が直面している困難に思いを致します。わたしは、若者に限らず、多くの人が失業していることを思います。多くの場合、その原因は、社会正義を度外視して、利己的な利益を追求する、社会の経済観にあります。
 わたしたちはすべての人を連帯へと招きます。そして政治の責任者が、新たな雇用を創出するためにあらゆる努力を行うよう励まします。それは人格の尊厳に配慮することを意味します。しかし、何よりもわたしはいいたいと思います。希望を失わないでください。聖ヨセフにも困難な時がありましたが、彼は信頼を失いませんでした。そして、神はわたしたちを見捨てないという確信のうちに、困難を乗り越えることができました。次いでわたしは、とくに青少年と若者の皆様に申し上げたいと思います。勉学、仕事、友人関係、他の人を助けることといった、日々の務めを果たしてください。皆様の未来は、人生の今の貴重な時をいかに生きることができるかにもかかっています。努力と犠牲を恐れてはなりません。未来を恐れてはなりません。希望を生き生きと保ってください。希望のうちに、いつも未来への明るい展望が開けます。
 わたしにとって気がかりな、もう一つの特別な労働に関する状況について、一言付け加えます。それは「奴隷労働」と呼ぶことができるような状況のことです。人間を奴隷にする労働のことです。世界中で多くの人がこのような奴隷状態の犠牲となっています。そこでは、人間が労働に奉仕しています。しかし、人間に奉仕しなければならないのは労働のほうです。人間の人格は尊厳をもっているからです。わたしは、信仰における兄弟姉妹の皆様と、すべての善意の人に呼びかけます。人身売買に反対する決断をしてください。この人身売買を象徴するのが「奴隷労働」です。
 第二のテーマについてお話しします。聖ヨセフは、沈黙のうちに日々の仕事を果たしながら、マリアと唯一の中心的な関心を共有していました。それはイエスです。二人は献身と優しい気遣いをもって、わたしたちのために人となった神の子の成長に同伴し、それを保護しました。そして、すべての出来事について思い巡らしました。聖ルカは福音書の中でマリアの態度を二回、強調して述べます。それは聖ヨセフの態度でもありました。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(2・19、51)。主に耳を傾けるために必要なのは、主を観想し、自分の生活の中に主がつねにともにおられるのを感じることを学ぶことです。立ち止まって、主と対話し、祈りによって主に場所を空けることです。今朝はたくさんの青少年と若者が来ておられます。わたしたちは皆、そして皆様若者も、自らに問いかけなければなりません。わたしは主にどれだけの場所を空けているだろうか。わたしは立ち止まって、主と対話しているだろうか。わたしたちが小さいときから、両親はいつも一日を祈りをもって初め、祈りをもって終えてきました。それは、神が友愛と愛をもってともにいてくださるのを感じることを学ばせるためです。一日の中で、もっと主のことを思い起こそうではありませんか。
 5月にあたり、聖なるロザリオの祈りの大切さとすばらしさを思い起こしていただきたいと思います。「アヴェ・マリアの祈り」を唱えることによって、わたしたちは、イエスの神秘を観想するように導かれます。すなわち、イエスの生涯の重要な時について考察するよう導かれます。それは、マリアと聖ヨセフと同じように、イエスがわたしたちの思いと関心と行いの中心となるためです。とくに5月の間、家庭の中で、友人とともに、小教区で、ロザリオやイエスとおとめマリアへの祈りをともに唱えられたら、とてもよいと思います。ともに祈ることは、家庭生活や友愛を堅固なものとするための貴重な機会となるからです。家庭の中で、家族として、もっと祈ることを学ぼうではありませんか。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。聖ヨセフとおとめマリアに願い求めたいと思います。わたしたちに教えてください。日々の仕事を忠実に果たし、日々の行いを通して信仰を生き、生活の中で主にもっと場所を空け、立ち止まって主のみ顔を観想することを。ご清聴ありがとうございます。

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