教皇フランシスコの7回目の一般謁見演説  聖霊

5月8日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの7回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、4月3日から再開した「信仰年」の連続講話の5回目として、「聖霊」について解説しました。以下 […]

5月8日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの7回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、4月3日から再開した「信仰年」の連続講話の5回目として、「聖霊」について解説しました。以下はその全文です(原文イタリア語)。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 教会の典礼に導かれながらわたしたちが喜びのうちに過ごしている復活節は、優れた意味で聖霊の季節です。聖霊は、十字架につけられて復活したイエスから「限りなく」(ヨハネ3・34参照)与えられるからです。この恵みの季節は聖霊降臨の祭日をもって終わります。聖霊降臨のとき、教会は、上の部屋に集まって祈っていたマリアと使徒たちの上に霊が注がれたことを追体験します。
 ところで、聖霊とはいかなるかたでしょうか。信条の中でわたしたちは信仰をもってこう告白します。「わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を」。信条の中でわたしたちが堅く信じる第一の真理はこれです。聖霊は「主(キュリオス)」です。これは次のことを意味します。聖霊は御父と御子がまことの神であるのと同じように、まことの神です。わたしたちの側からいえば、聖霊は、わたしたちが御父と御子に対して行うのと同じ礼拝と賛美をささげるかたです。実際、聖霊は至聖なる三位一体の第三のペルソナです。聖霊は復活したキリストが与える偉大なたまものです。このたまものは、父から遣わされた子としてイエスを信じる信仰へとわたしたちの思いと心を開き、わたしたちを神との友愛と交わりへと導くからです。
 しかしわたしは、聖霊が、わたしたちの中にある神のいのちの尽きることのない泉であることについて、とくに考えてみたいと思います。すべての時代と場所の人は、完全ですばらしいいのちを、公正と善に満ちたいのちにあこがれています。死によって脅かされることなく、完全なものとなるまで育ち、成長するいのちにあこがれています。人間は旅人のようなものです。この旅人は、人生の荒れ野を歩みながら、生きた水を渇き求めます。光と愛と美と平和に対する深い望みを根本からいやすことができる、湧き出る新鮮な水を渇き求めます。すべての人はこのあこがれを感じています。そしてイエスは、この生きた水をわたしたちに与えてくださいます。それが聖霊です。聖霊は父から出ます。この聖霊をイエスはわたしたちの心にあらためて注ぎます。「わたしが来たのは、羊がいのちを受けるため、しかも豊かに受けるためである」(ヨハネ10・10)。
 イエスはサマリアの女に約束します。わたしは、わたしが世を救うために父から遣わされた者だと認めるすべての人に、「生きた水」を豊かに、永遠に与える(ヨハネ4・5-26、3・17参照)。イエスが来られたのは、聖霊というこの「生きた水」をわたしたちに与えて、わたしたちの人生が神に導かれ、促され、養われるようにするためでした。わたしたちがキリスト者とは霊的な人だというとき、このことばは次のことを意味します。キリスト者とは、神に従って、すなわち聖霊に従って考え、行動する人です。しかし、わたしは問いかけます。わたしたちは神に従って考えているでしょうか。神に従って行動しているでしょうか。それともわたしたちは、神とはまったくいえない他の多くのものに導かれているのでしょうか。わたしたちは皆、心の底からこの問いに答えなければなりません。
 ここでわたしたちは自問します。この水はどうしてわたしたちの渇きを根本からいやすことができるのでしょうか。ご存じのとおり、水は生きるために不可欠なものです。人は水がなければ死んでしまいます。水は渇きをいやし、洗い清め、地を豊かにします。ローマの信徒への手紙には次のように書かれています。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」(ローマ5・5)。「生きた水」、すなわち、わたしたちのうちに住む、復活した主のたまものである聖霊は、わたしたちを清め、照らし、新たにし、造り変えます。なぜなら、聖霊はわたしたちを、愛である神のいのちそのものにあずからせてくださるからです。だから使徒パウロはこういうのです。キリスト者の生活は聖霊とその実によって導かれます。聖霊の実とは「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5・22-23)。聖霊はわたしたちを「独り子の子」として神のいのちに導き入れてくださいます。聖パウロは、わたしたちが何度も引用するローマの信徒への手紙の別の箇所で、このことを次のことばで要約します。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、・・・・神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子どもであることを、わたしたちの霊と一緒になってあかししてくださいます。もし子どもであれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストとともに苦しむなら、ともにその栄光をも受けるからです」(ローマ8・14-17)。聖霊がわたしたちの心にもたらす貴いたまものとはこれです。それは神のいのちそのものです。まことの子としてのいのちです。確信と、自由と、神の愛とあわれみへの信頼に満ちた関係です。この関係の結果としてもたらされるのが、近くにいる人も遠くの人も含めた、他の人々に対する新しいまなざしです。わたしたちはつねにこの人々を、尊重し愛すべき、イエスにおける兄弟姉妹とみなすからです。聖霊は、わたしたちがキリストの目をもって見、キリストと同じように生涯を生き、キリストと同じように人生を理解するように教えてくださいます。だからこそ生きた水である聖霊はわたしたちの人生の渇きをいやすのです。聖霊はわたしたちにこう語るからです。あなたがたは子として神に愛されています。あなたがたは子として神を愛することができます。あなたがたは神の恵みによって、イエスと同じように、神の子として生きることができるのです。ところでわたしたちは、聖霊のことばに耳を傾けているでしょうか。聖霊はわたしたちに何といっておられるでしょうか。聖霊はいいます。神はあなたを愛しています。聖霊はわたしたちにいいます。神はあなたを愛しています。神はあなたのためになることを望んでおられます。わたしたちは本当にイエスと同じように神と他の人々を愛しているでしょうか。聖霊に導いていただこうではありませんか。聖霊によってわたしたちの心に語りかけていただこうではありませんか。こう語りかけていただこうではありませんか。神は愛です。神はあなたに期待をかけておられます。神は父です。まことのパパとしてわたしたちを愛してくださいます。わたしたちを本当に愛してくださいます。そして、聖霊だけがこのことを心に語りかけてくださいます。聖霊に聞こうではありませんか。聖霊に耳を傾けようではありませんか。そして、この愛とあわれみとゆるしの道を進んでいこうではありませんか。ご清聴ありがとうございます。

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