教皇フランシスコの8回目の一般謁見演説 真理へと導くかたである聖霊への信仰

5月15日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの8回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、4月3日から再開した「信仰年」の連続講話の6回目として、「真理へと導くかたとしての聖霊へ […]

5月15日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの8回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、4月3日から再開した「信仰年」の連続講話の6回目として、「真理へと導くかたとしての聖霊への信仰」について解説しました。以下はその全文です(原文イタリア語)。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 今日は、聖霊が教会とわたしたち皆を真理へと導くわざについて考えてみたいと思います。イエスご自身が弟子たちにいわれます。聖霊は「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ16・13)。聖霊は「真理の霊」(ヨハネ14・17、15・26、16・13参照)だからです。
 わたしたちは人々が聖霊を疑う時代に生きています。ベネディクト十六世は何度も相対主義について語りました。相対主義とは、決定的なことは何もないと思い、真理は、同意ないしは自分たちの望みに由来すると考える思潮のことです。ここで問いが生じます。真理「そのもの」は本当に存在するのでしょうか。真理「そのもの」とは何でしょうか。わたしたちがそれを知ることは可能でしょうか。それを見いだすことは可能でしょうか。ここでわたしは、イエスがご自分の使命の深い意味を示したときにローマ総督ポンティオ・ピラトが発した問いを思い起こします。「真理とは何か」(ヨハネ18・37-38)。ピラトは真理「そのもの」であるかたが目の前にいることが分かりません。イエスのうちに真理の顔を、すなわち神のみ顔を見いだすことができません。まことに、イエスこそ真理そのものです。時が満ち、「肉となって」(ヨハネ1・1、14)、わたしたちが知ることができるようになるために、わたしたちのただ中に来られた真理です。真理は何らかの対象として捉えるものではありません。真理とは出会うものです。真理とは所有ではなく、一人の人格との出会いです。
 しかし、イエスが真理のことば「そのもの」であり、父である神の独り子であることをだれがわたしたちに悟らせてくれるのでしょうか。聖パウロは「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とはいえない」(一コリント12・3)ことを教えてくれます。復活したキリストのたまものである聖霊こそが、真理そのものであるかたをわたしたちに悟らせてくださいます。イエスは聖霊を「弁護者」と呼びます。弁護者とは「わたしたちを助けに来てくださるかた」です。このかたはこのような認識への道を歩むわたしたちを味方となって支えてくださいます。そしてイエスは最後の晩餐のとき弟子たちに約束されます。聖霊はあなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことを思い起こさせると(ヨハネ14・26参照)。
 それでは、わたしたちの生活と教会生活の中でわたしたちを真理へと導くために聖霊が行うわざとは、どのようなものでしょうか。第一に、聖霊は、イエスが語ったことばを思い起こさせ、信じる者の心に刻みます。そしてまさにこのイエスのことばを通じて、(旧約の預言者が告げた)神の律法が、わたしたちの心に刻みつけられ、さまざまな選択を識別し、日々の活動を導く原則となります。生きる原則となります。こうしてエゼキエルの偉大な預言が実現します。「お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。・・・・また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」(エゼキエル36・25-27)。実際、わたしたちの行動は、自分の心の奥底から生まれます。神へと回心しなければならないのは心です。そして聖霊は、わたしたちが心を開くなら、心を造り変えてくださいます。
 第二に、聖霊は、イエスが約束してくださったとおり、わたしたちを導いて「真理をことごとく悟らせ」(ヨハネ16・13)ます。聖霊は、完全な真理であるイエスとの出会いへとわたしたちを導くだけではありません。それはまた、真理であるかたの「中」にもわたしたちを導きます。すなわち、イエスとのますます深い交わりへとわたしたちを歩み入らせ、神に関することがらを知る恵みを与えます。これはわたしたちが自分の力で到達できることではありません。もし神がわたしたちの心を照らしてくださらなければ、わたしたちのキリスト信者としての生活は表面的なものとなってしまいます。教会の聖伝はいいます。真理の霊は、「信仰の感覚(sensus fidei)」を生み出すことを通してわたしたちの心の中で働きます。第二バチカン公会議が述べるとおり、この「信仰の感覚」を通して、神の民は、教導職の指導のもとに、伝えられた信仰を損なうことなく堅く守り、正しい判断をもってその信仰をいっそう深く掘り下げ、それを生活のうちにより完全に具体化してゆきます(『教会憲章』12参照)。自らに尋ねてみなければなりません。わたしは聖霊のわざに心を開いているでしょうか。わたしは聖霊に祈っているでしょうか。わたしに光を与え、神に関することがらをもっと感じることができるようにしてくださいと。わたしたちは日々、次の祈りを唱えなければなりません。「聖霊よ。わたしの心を神のことばに向けて開いてください。わたしの心をよいことに開いてください。わたしの心を日々、神の美しさへと開いてください」。皆様に問いかけたいと思います。皆様の中で、どれだけの人が日々、聖霊に祈っておられるでしょうか。そういう人はわずかしかいないかもしれません。けれどもわたしたちはイエスの望みに従って、日々、聖霊に祈らなければなりません。わたしたちの心をイエスへと開いてくださいと。
 わたしはマリアのことを思います。マリアは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2・19、51)からです。みことばと信仰の真理を受け入れ、生活に生かすことは、聖霊のわざによって実現し、深まります。その意味で、わたしたちはマリアから、その「はい」という返事を追体験することを学ばなければなりません。完全な従順のうちに自分の人生に神の子を受け入れたことを学ばなければなりません。マリアの人生は、神の子を受け入れた瞬間から造り変えられたのです。聖霊を通じて、父と子はわたしたちのうちに住まわれます。わたしたちは神のうちに、神を生きるようになります。しかしわたしたちの生活は本当に神に導かれているでしょうか。わたしたちはどれだけのことを神のみ前に置いているでしょうか。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしたちは聖霊の光に満たしていただかなければなりません。それは、聖霊がわたしたちを神の真理に導き入れてくださるためです。神こそがわたしたちの人生の唯一の主だからです。「信仰年」にあたり、自らに問わなければなりません。わたしたちはキリストと信仰の真理をもっとよく知るために具体的な形で何かをしているでしょうか。聖書を読んで黙想したり、カテキズムを学んだり、秘跡に定期的にあずかっているでしょうか。同時にわたしたちは自らに問わなければなりません。信仰によって生活全体を方向づけてもらうために、わたしたちは何をしているでしょうか。人は、ある時と状況のときだけ、特定の決断についてのみ、「一時的に」キリスト信者となるのではありません。人がこのようなしかたでキリスト信者となることはできません。人はあらゆる時に、全体として、キリスト信者なのです。聖霊がわたしたちに教え、与えてくださるキリストの真理は、つねにわたしたちの日常生活全体にかかわります。聖霊にもっと祈り求めようではありませんか。キリストの弟子として歩むわたしたちを導いてください。聖霊に日々祈り求めようではありませんか。このことを皆様に提案したいと思います。日々、聖霊に祈り求めてください。そうすれば、聖霊はわたしたちをイエス・キリストへと近づけてくださるでしょう。

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