教皇フランシスコの9回目の一般謁見演説 聖霊を信じます――教会の宣教使命

5月22日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの9回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、4月3日から再開した「信仰年」の連続講話の7回目として、「聖霊を信じます――教会の宣教使 […]

5月22日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの9回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、4月3日から再開した「信仰年」の連続講話の7回目として、「聖霊を信じます――教会の宣教使命」について解説しました。以下はその全文です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇は5月24日の「中国の教会のために祈る日」を前にして、イタリア語で次の呼びかけを行いました。
「5月24日(金)は、上海の佘山(シェシャン)の聖母巡礼聖堂で深い信心をもってキリスト信者の助けとしてあがめられている、聖なるおとめマリアの記念日です。
 わたしは世界のすべてのカトリック信者の皆様にお願いします。中国にいる兄弟姉妹と心を一つにして祈ってください。そして、死んで復活したキリストをへりくだりと喜びをもって告げ知らせ、キリストの教会とペトロの後継者に忠実に従い、日々の生活の中で、自らの告白する信仰と一致したしかたで、自国と同胞に奉仕する恵みを神に祈り求めてください。
 『佘山(シェシャン)の聖母への祈り』のことばを用いて、わたしも皆様とともにマリアに祈り求めます。『佘山(シェシャン)の聖母よ。中国のすべての信者を支えてください。彼らは日々の試練のさなかで、信じ、希望し、愛し続けています。彼らが恐れることなく、世にイエスを語り、イエスに世を語ることができますように』。
 忠実なおとめであるマリア。中国のカトリック信者を支え、彼らの困難な取り組みを主の目にとってますます貴いものとしてください。そして、中国の教会がますます愛と参加をもって普遍教会への道を歩むことができるようにしてください」。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 「信条」の中で、聖霊への信仰を告白したすぐ後、わたしたちはこう唱えます。「わたしは、唯一の、聖なる、普遍の、使徒的教会を信じます」。この信仰の二つの要素の間には深いつながりがあります。実際、教会にいのちを与え、その歩みを導くのは聖霊です。聖霊の現存と絶えざる働きがなければ、教会は生きることができませんし、復活したイエスが命じた、行って、すべての民を弟子にしなさいという使命を果たすこともできません(マタイ28・19参照)。福音宣教を行うことは教会の使命です。この使命は、一部の人だけのものではなく、わたしと、あなたと、わたしたちの使命です。使徒パウロは叫んでいいます。「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(一コリント9・16)。すべての人が、何よりも生活をもって、福音宣教を行う者とならなければなりません。パウロ六世が強調するとおりです。「福音を伝えることは、実に教会自身の本性に深く根ざしたもっとも特有の恵みであり、召命です。教会はまさに福音をのべ伝えるために存在しています」(使徒的勧告『福音宣教』14)。
 わたしたちの生活と教会を真に福音宣教へと駆り立てるのはだれでしょうか。パウロ六世ははっきりとこう述べます。「初代教会と同じように今日でも、すべての福音宣教者のうちで働いているのは聖霊であり、彼らは自らを聖霊にゆだね、聖霊に導かれているのです。聖霊は自分だけではとても見つけることのできないことばを宣教者に伝え、また聞く人の心を開いて、福音と神の国の知らせを受け入れるように導きます」(同75)。それゆえ、福音宣教を行うために必要なのは、神の霊が示す可能性にあらためて心を開くことです。聖霊がわたしたちに何を求めるか、わたしたちをどこへ導くかについて、恐れてはなりません。聖霊に身をゆだねてください。聖霊は、わたしたちが信仰を生き、あかしすることを可能にし、また、わたしたちが出会う人々の心を照らしてくださいます。これが聖霊降臨で人々が経験したことです。上の部屋でマリアとともに集まっていた使徒たちの上に「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々のことばで話しだした」(使徒言行録2・3-4)。使徒たちの上に降った聖霊は、恐れのために閉じこもっていた部屋から彼らを連れ出します。聖霊は、彼らを自分自身から連れ出し、「偉大なわざ」(11節)を告げ知らせ、あかしする者に造り変えます。そして、聖霊によるこの変容のわざは、「天下のあらゆる国から帰って来た」(5節)、その場にいた人々にも反映します。彼らは、自分の故郷のことばが話されているかのように使徒たちのことばを耳にしたからです(6節)。
 一致と交わり。これが、福音の告知を導き、力づける、聖霊のわざの第一の重要な結果です。聖書の記事によれば、諸民族の分裂と言語の混乱はバベルから始まりました。それは、神の力を借りずに、自分の力だけで「天まで届く塔のある町」(創世記11・4)を建てようとした人間の、思い上がりと傲慢に満ちた行為の招いた結果でした。聖霊降臨によってこの分裂が克服されます。もはや神に対して傲慢となることも、互いに心を閉ざすこともありません。むしろ、人々は神へと心を開き、神のことばを告げ知らせるために出かけていきます。彼らが告げ知らせるのは、新しいことばです。聖霊が心に注ぐ、愛のことばです(ローマ5・5参照)。それは、だれもが理解でき、人がそれを受け入れるならば、あらゆる生活と文化の中で言い表せることばです。聖霊のことば、すなわち福音のことばは、交わりのことばです。このことばは、自閉と無関心、分裂と対立を乗り越えるように招きます。わたしたちは皆、自らに問わなければなりません。わたしはどのようなしかたで聖霊に導かれているだろうか。わたしの信仰生活と信仰のあかしは、一致と交わりをあかししているだろうか。わたしは、福音という、和解と愛のことばを自分の生きる状況の中で伝えているだろうか。時として、バベルで起きたことが現代においても繰り返されているかのように思われます。すなわち、分裂、無理解、対抗心、嫉妬、利己心です。わたしは自らの生活によって何をしているでしょうか。わたしは周りに一致を作り出しているでしょうか。それとも、うわさ話や批判や嫉妬によって分裂をもたらしているでしょうか。わたしは何をしているでしょうか。わたしたちはこのことを考えてみなければなりません。福音を伝えるとは、聖霊がわたしたちに与えてくださる、和解とゆるしと平和と一致と愛を、自ら率先して実践することです。イエスのことばを思い起こすべきです。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13・34-35)。
 第二の点はこれです。聖霊降臨の日、ペトロは聖霊に満たされて、「十一人とともに」立って、「声を張り上げ」(使徒言行録2・14)、「はっきり」(29節)と、イエスの福音を告げ知らせます。イエスはわたしたちの救いのためにご自分のいのちをささげました。神はこのかたを死者の中から復活させたのです。ここに聖霊のわざがもたらすもう一つの効果が見いだされます。すなわち、大胆に(パッレーシア)、大声で、あらゆる時、あらゆる場所で、すべての人にイエスの福音の新しさを告げる勇気です。このことは現代においても、教会とわたしたち皆に起こります。聖霊降臨の炎から、聖霊のわざから、つねに新たな宣教の力、救いの知らせを告げる新しい方法、福音宣教を行う新たな勇気が湧き起こります。聖霊のわざに心を閉ざしてはなりません。へりくだりと勇気をもって福音を生きようではありませんか。主がわたしたちの生活にもたらしてくださった新しさと希望と喜びをあかししようではありませんか。「甘美と慰めに満ちた福音宣教の喜び」(パウロ六世使徒的勧告『福音宣教』80)を心に感じようではありませんか。福音を宣教すること、イエスをのべ伝えることは、喜びを与えてくれるからです。これに対して、利己主義は、幻滅と悲しみを与えます。わたしたちを押し下げます。福音宣教は、わたしたちを高めます。
 第三の点に簡単に触れたいと思います。しかし、これも特別に重要な点です。すなわち、新しい福音宣教も、福音宣教を行う教会も、つねに祈ることから、上の部屋の使徒たちと同じように、聖霊の炎を願うことから出発しなければなりません。神との忠実で深い関係のみが、閉じこもった態度から出て、大胆に福音を告げ知らせることを可能にします。祈りがなければ、わたしたちの行動はむなしいものとなり、わたしたちの告知も魂を欠き、霊に導かれたものとなりません。
 親愛なる友人の皆様。ベネディクト十六世が述べたとおり、現代の教会は「何よりも、わたしたちを助け、正しい道を示してくださる聖霊の風を感じています。だからわたしたちは、新たな熱意をもって歩み、主に感謝するのです」(「世界代表司教会議(シノドス)総会でのことば(2012年10月27日)」)。日々、聖霊のわざへの信頼を新たにしようではありませんか。聖霊がわたしたちのうちで働き、わたしたちのうちに住み、わたしたちに使徒的熱意と平和と喜びを与えてくださることをあらためて信頼しようではありませんか。聖霊に導いていただこうではありませんか。祈りの人となろうではありませんか。勇気をもって福音をあかしし、現代世界で神との一致と交わりの道具となろうではありませんか。ご清聴ありがとうございます。

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