教皇フランシスコの10回目の一般謁見演説 神の家族としての教会

5月29日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの10回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、第二バチカン公会議文書からヒントを得た、教会の神秘についての新しい連続講話を開始しまし […]

5月29日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの10回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、第二バチカン公会議文書からヒントを得た、教会の神秘についての新しい連続講話を開始しました。この日のテーマは「神の家族としての教会」です。以下はその全文です(原文イタリア語)。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 先週の水曜日、わたしは聖霊と教会の深いつながりを強調しました。今日からわたしは教会の神秘についての連続講話を始めたいと思います。わたしたちは皆、この神秘を生き、その一部となっているからです。わたしはこの講話を第二バチカン公会議のよく知られたテキストによって行いたいと思います。
 今日の第一回は「神の家族としての教会」です。
 最近の数か月に、わたしは何度も放蕩息子のたとえ話、あるいはより適切にいえばあわれみ深い父のたとえ話に言及しました(ルカ15・11-32参照)。下の息子は父の家を出て、何もかも使い果たした後、家に帰ろうと決めます。自分が間違っていたことを悟ったからです。しかし彼は、自分がもはや息子と呼ばれる資格がないことを顧みて、しもべとしてならもう一度迎え入れてもらえるだろうと考えます。しかし父親は走り寄って息子を抱き、息子としての資格を回復し、祝宴を行います。このたとえ話は、福音書の他のたとえ話と同じように、人類に対する神の計画をよく示しています。
 神の計画とはいかなるものでしょうか。それは、わたしたち皆を、ご自分の子から成る唯一の家族とすることです。この家族において、だれもが神を身近に感じ、また神に愛されていることを感じます。福音のたとえ話に書かれているとおりです。だれもが神の家族であることの温もりを感じるのです。教会はこの偉大な計画のうちに自らの起源を見いだします。教会は、何人かの人の取り決めによって生まれた組織ではなく、――教皇ベネディクト十六世が何度も思い起こさせてくださったとおり――神のわざです。教会は、歴史の中で少しずつ実現される、この愛の計画から生まれるのです。神はすべての人をご自身との交わりへと、ご自身との友愛へと招きます。そればかりか、ご自分の子として神のいのちそのものへとあずかるように招こうと望みます。教会はこの神の望みから生まれるのです。「エクレーシア」というギリシア語に由来する「教会」ということば自体が、「呼び集めること」を意味します。神はわたしたちを呼び集めます。わたしたちが個人主義から、すなわち、自分のうちにと閉じこもる傾向から脱け出るように促します。そして、わたしたちがご自分の家族の一員となるように招きます。この招きの起源は、創造のわざそのもののうちにあります。神がわたしたちを創造したのは、わたしたちが神との深い友愛の関係を生きるようにするためです。そして、罪が、この神との関係と他の人との関係と被造物との関係を壊しても、神はわたしたちを見捨てません。救いの歴史全体は、神が人間を捜し求め、人間にご自分の愛を示し、人間を迎え入れる歴史です。神は、多くの人の父となるようアブラハムを招きました。すべての民を包括する契約を結ぶためにイスラエルの民を選びました。そして時が満ちると、ご自身の愛と救いの計画を全人類との新しい永遠の契約によって実現させるために、ご自分の子を遣わしました。福音書を読むと、次のことが分かります。イエスはご自分の周りに小さな共同体を集めます。この共同体は、イエスのことばを受け入れ、イエスに従い、イエスとともに旅をし、イエスの家族となります。そしてイエスはこの共同体によってご自分の教会を準備し、築きます。
 では、教会はどこから生まれたのでしょうか。教会は、十字架の最高の愛のわざから生まれました。イエスの開かれた脇腹から生まれました。この脇腹から、聖体と洗礼の象徴である、血と水が流れ出たのです。教会という神の家族を生かす血液は、神の愛です。神の愛は、区別なく無制限に、神と他のすべての人を愛することによって具体化されます。教会は、その中で人が愛し、愛される家族なのです。
 教会はいつ姿を現したのでしょうか。わたしたちは最近、二つの主日にこれを記念しました。教会は、聖霊のたまものが使徒たちの心を満たし、彼らが出かけて行って、福音を告げ知らせ、神の愛を広めるため旅を始めるよう促したときに、姿を現しました。
 現代においても、次のようにいう人がいます。「キリストには然り、教会には否」。それは、「わたしは神を信じるが、司祭は信じない」という人と同じです。しかし、わたしたちにキリストを伝え、わたしたちを神へと導くのは、教会です。教会は、神の子から成る偉大な家族です。いうまでもなく、教会にも人間的な側面があります。教会を構成する司牧者と信者には、欠陥や不完全さや罪が存在します。教皇にもあります。それもたくさんあります。しかし、すばらしいことがあります。わたしたちは、自分が罪人であることを受け入れるとき、神のあわれみを見いだします。神はつねにゆるしてくださるからです。次のことを忘れてはなりません。神はつねにゆるしてくださいます。そして、ご自分のゆるしとあわれみの愛によって、わたしたちを受け入れてくださいます。罪は神への冒瀆だという人がいます。しかし、罪は、へりくだって、もっとすばらしいものがあることを認める機会にもなります。それは、神のあわれみです。このことを考えてみなければなりません。
 今日、次のように自らに問いたいと思います。わたしはどれだけ教会を愛しているでしょうか。教会のために祈っているでしょうか。教会という家族の一員であることを自覚しているでしょうか。教会が、すべての人が受け入れられ、理解されていると感じ、神のあわれみと愛が生活を刷新してくれると感じられるような共同体になるために、何かしているでしょうか。信仰は、わたしたちに個人としてかかわるたまものであり、行為です。しかし、神はわたしたちが、家族として、教会として、自分たちの信仰をともに生きるよう招きます。
 信仰年にあたって、特別なしかたで主に願いたいと思います。わたしたちの共同体が、全教会が、ますます真の家族となり、神の温もりを生き、伝えるものとなることができますように。

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