教皇フランシスコの2013年6月2日の「お告げの祈り」のことば キリストの聖体

教皇フランシスコは、6月2日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。 「お告げの祈り […]

教皇フランシスコは、6月2日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 すでに2年以上にわたりシリアを炎上させ、とくに無防備の人々を傷つけている紛争の継続に対して、深い悲しみをもってつねに懸念を抱いています。シリア国民は公正と相互理解のうちに平和が訪れることを願っています。この苦難に満ちた戦闘状況は、悲惨な帰結をもたらしています。死と破壊と、経済と環境の莫大な損害、そして痛ましい誘拐です。わたしはこれらのことを非難するとともに、誘拐された人々とそのご家族のために祈り、連帯することを約束したいと思います。そして、犠牲者を解放するよう、誘拐を行う人々の人間性に訴えかけます。愛するシリアのためにつねに祈ってください。
 世界には多くの紛争状況が存在しますが、多くの希望のしるしも存在します。ラテンアメリカ諸国における和解と平和に向けた最近の取り組みを励ましたいと思います。わたしたちも祈りをもってこれらの国に同伴したいと思います。
 今朝わたしは、幾人かの軍人と、平和活動において亡くなったかたのご家族とともにミサをささげました。こうした平和活動は、戦争(それはつねに愚かしいものです)によって多くの兄弟の血を流している国々で和解と平和を推進しようと努めています。『すべては戦争によって失われます。すべては平和によって得られます』。亡くなったかた、けがをしたかた、そしてそのご家族のためにお祈りください。今、沈黙のうちに、亡くなったかた、けがをしたかた、そしてそのご家族のために、ご一緒に祈りたいと思います」。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。今日は。

 先週の木曜日(5月30日)、わたしたちはキリストの聖体の祭日を祝いました。イタリアと他の国々では、この祭日は今日の主日に移されています。キリストの聖体の祭日は、聖体、すなわちキリストのからだと血の祭日です。
 福音はパンの増加の物語を示してくれます(ルカ9・11-17参照)。つねにわたしの心を打ち、考えさせる、一つの点について考えてみたいと思います。わたしたちは夕暮れを間近にした、ガリラヤ湖のほとりにいます。イエスは何時間も自分とともにいる人々のことを気にかけます。それは何千人もの空腹を抱えた人々です。どうすればよいでしょうか。弟子たちもこう自問して、イエスにいいます。「群衆を解散させてください」。そうすれば、近くの村に行って、食べ物を見つけるでしょうから。しかし、イエスはいわれます。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(13節)。弟子たちは困惑して、こたえます。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません」。それは、自分たちに必要な分しかないといわんばかりでした。
 イエスはどうすべきかをご存じでしたが、ご自分の弟子たちに手伝わせることを望みます。弟子たちを教育しようと望みます。弟子たちの態度は、人間的な態度です。彼らは、多くの問題を引き起こさない、より現実的な解決法を捜します。彼らはいいます。群衆を解散させてください。そうすれば、皆、自分の力で何とかするでしょう。いずれにせよ、あなたは彼らのために多くのことをすでになさったではありませんか。あなたは説教し、病人たちをいやしました。群衆を解散させてください。
 イエスの態度は決定的に異なります。この態度は、その御父との一致と、群衆に対するあわれみによって導かれます。わたしたち皆に対するイエスのあわれみによって導かれます。イエスはわたしたちの抱える問題を知っておられます。わたしたちの弱さを知っておられます。わたしたちが必要とするものを知っておられます。イエスはこのパン五つを見てこう考えます。これこそ摂理だ。神はこのわずかなものから、すべての人に必要なものを引き出すことがおできになる。イエスは天の父に完全に身をゆだねます。父にとってはすべてが可能であることを知っておられます。だからイエスは弟子たちにいいます。人々を五十人ずつ組にして座らせなさい。これは偶然行われたことではありません。それは、人々がもはや群衆ではなく、神のパンに養われた共同体となっていることを意味するからです。それからイエスは、パンと魚を取り、天に目を上げて、祝福を唱えます――これは明らかに聖体を指示しています――。それからイエスはパンと魚を裂いて弟子たちに与え始めます。弟子たちもそれを配ります。パンと魚はまったく不足することがありませんでした。パンと魚が増加したこと以上に、信仰と祈りによって分かち合いが行われたこと――これこそが奇跡です。すべての人が食べても、なお余りました。これがイエスのしるしです。イエスは人類のための神のパンだからです。
 弟子たちは目では見ても、メッセージをよく理解できませんでした。群衆と同様、彼らも成功した喜びに心を捕らえられました。彼らは再び、神の考え方ではなく、人間の考え方に従います。神の考え方とは、奉仕と愛と信仰に基づく考え方です。キリストの聖体の祭日は、わたしたちが回心して摂理を信じるよう求めます。自分自身に閉じこもることなく、たとえささやかでも、わたしたち自身と、その持てるものを分かち合えるようになることを求めます。わたしたちの母であるマリアに願おうではありませんか。わたしたちを助けてください。回心して、わたしたちが聖体のうちに礼拝するイエスにいっそう真の意味で従うことができますように。アーメン。

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