教皇フランシスコの11回目の一般謁見演説 被造物を耕し、守ること

6月5日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの11回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、世界環境デーにあたって、「被造物を耕し、守ること」について解説しました。以下はその全文で […]

6月5日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの11回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、世界環境デーにあたって、「被造物を耕し、守ること」について解説しました。以下はその全文です(原文イタリア語)。

世界環境デーは、1972年6月5日からスウェーデンのストックホルムで開催された国連人間環境会議を記念して、1972年12月15日に国連総会で制定されました。2013年の世界環境デーのテーマは「THINK EAT SAVE」(考えて食べ節約し、食料廃棄を減らそう)です。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 今日は環境問題について考えてみたいと思います。わたしはすでにさまざまな機会にこの問題を考えてきました。これは今日が国連の定めた世界環境デーであることからも意味深いことに思われます。今年の世界環境デーは、浪費と食料廃棄をやめなければならないことを強く呼びかけています。
 環境と被造物について語るとき、わたしの思いは聖書の最初の頁、すなわち創世記に向かいます。そこではこういわれています。神は男と女を地の上に置きました。地を耕し、守らせるためです(創世記2・15参照)。ここでわたしの頭に問いが浮かびます。地を耕し、守るとはどういう意味でしょうか。わたしたちは本当に被造物を耕し、守っているでしょうか。それとも、それを搾取し、ないがしろにしているでしょうか。「耕す」ということばは、収穫を得てそれを分かち合うために、農夫が自分の畑の世話をすることを思い起こさせます。農夫はどれほどの注意と情熱と献身を傾けることでしょうか。被造物を耕し、守りなさいという神の命令は、歴史の最初に与えられただけでなく、わたしたち皆に与えられます。それは神の計画の一部です。それは責任をもって世を成長させ、世を園に造り変えることを意味します。園とは、すべての人が住める場所です。ベネディクト十六世は、何度も次のことを思い起こさせてくださいました。すなわち、創造主である神からゆだねられたこの務めは、被造物のリズムと論理を把握することを要求します。しかしわたしたちはしばしば、支配し、所有し、操作し、搾取しようとする傲慢に導かれています。わたしたちは被造物を「守る」ことも、尊重することも、大切にすべき無償のたまものとして考えることもありません。わたしたちは被造物に驚き、観想のまなざしを注ぎ、耳を傾ける態度を失っています。そのためわたしたちは、ベネディクト十六世が「神と人間との愛の歴史のリズム」と呼んだものを被造物のうちに読み取ることができなくなっています。なぜこのようなことが起こったのでしょうか。それは、わたしたちが水平的にものごとを考え、生きているからです。神から遠ざかり、神のしるしを読み取れないからです。
 しかし、「耕し、守ること」は、わたしたちと環境の関係、すなわち人間と被造物の関係にかかわるだけではありません。それは、人間関係にもかかわります。歴代の教皇は「人間のための環境保護(ヒューマン・エコロジー)」について語って来ました。「人間のための環境保護(ヒューマン・エコロジー)」は「自然環境保護」と密接に結ばれています。わたしたちは危機の時代に生きています。わたしたちはこの危機を自然環境のうちに見いだすととともに、とりわけ人間のうちに見いだします。人間の人格は危険にさらされています。確かに現代において人間の人格は危険にさらされています。だから人間のための環境保護が緊急に必要とされるのです。この危険は重篤です。なぜなら、問題の原因が表面的ではなく、深刻だからです。それは経済だけでなく、倫理と人間観の問題だからです。教会はこのことを何度も強調してきました。すると多くの人はいいます。それは正しいし、本当だ。・・・・しかし、制度はこれまでどおり継続する。経済と倫理を欠いた金融のダイナミズムが支配するからだ。現代の支配者は人間ではなく、通貨なのだ。富が命令するのだ。しかし、わたしたちの父である神は、通貨ではなくわたしたち人間に、地を耕す務めを与えました。これはわたしたちの務めです。しかし、人間は利潤と消費という偶像の犠牲とされています。すなわち「廃棄の文化」です。コンピューターが壊れたら一大事です。しかし、多くの人々の貧困や困窮や悲惨な状態は日常茶飯事となります。たとえば、ある冬の夜、ヴィア・オッタヴィアーノの近くで一人の人が死んでも、ニュースにはなりません。世界の多くの地域で子どもたちが食べ物にこと欠いていても、ニュースにはなりません。それは日常的なこととみなされます。決してそうであってはなりません。けれども、これらのことは日常的なこととして扱われるのです。幾人かのホームレスの人が路上で凍死しても、ニュースにはならないのです。これに対して、ある都市の株式市場で10ポイントの下落があれば、一大事です。一人の人の死はニュースになりませんが、株式市場の10ポイントの下落は一大事なのです。このようにして人間はあたかもごみのように捨てられるのです。
 この「廃棄の文化」は普通の考え方となり、すべての人に悪影響を及ぼしつつあります。もはや人間のいのちも、人格も、尊重し、保護すべき第一の価値とは考えられません。とくにその人が貧しかったり、障害をもっている場合です。まだ役に立たない場合や――出生前の子どものように――、もはやはや役に立たない場合も同じです――高齢者のように――。この廃棄の文化は、浪費や食料廃棄に対してもわたしたちを無感覚にします。これはいっそう非難すべきことです。残念ながら世界のあらゆる地域で、多くの人や家族が飢餓と栄養不足で苦しんでいるからです。かつてわたしたちの祖父母は、余った食べ物を決して捨てないようきつく注意したものです。わたしたちは消費主義によって、ぜいたくと日常的な食料の浪費に慣れてしまっています。時として食料をふさわしいしかたで大切に考えないこともあります。それは純粋な経済的基準外のことだからです。しかし、食料を捨てるなら、貧しい人、飢えている人の食卓から奪うことになることをよく心に留めるべきです。皆様にお願いします。食料の廃棄と浪費の問題をよく考察してください。この問題に真剣に取り組むことによって、困窮した人との連帯と分かち合いの手段となるような方法を見いだすためです。
 数日前、キリストの聖体の祭日に、パンの増加の記事が朗読されました。イエスは五つのパンと二匹の魚で群衆を満腹させました。記事の結びのことばは重要です。「すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」(ルカ9・17)。イエスは弟子たちに、何も失わないように、何も捨てないように求めるのです。だから十二籠あったということです。なぜ十二なのでしょうか。これは何を意味するのでしょうか。十二はイスラエルの部族の数です。それはすべての民を象徴的に表します。このことはわたしたちに次のことを示します。食料を公平に、連帯性をもって分け合うなら、だれも必要なものにこと欠きません。そして、あらゆる共同体は、困窮した人の必要を満たすことができます。人間のための環境保護と自然環境保護はともに歩むのです。
 それゆえわたしは、すべての人が、被造物を尊重し、守るという務めを真剣に受け止めてくださるよう望みます。すべての人に気を配り、廃棄と浪費の文化に対抗し、連帯と出会いの文化を推進してください。ご清聴ありがとうございます。

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