教皇フランシスコの2013年6月9日の「お告げの祈り」のことば イエスのみ心

教皇フランシスコは、年間第10主日の6月9日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。 […]

教皇フランシスコは、年間第10主日の6月9日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「今日クラクフで、二人のポーランド人の修道女が列福されます。17世紀初頭に聖なるおとめマリア奉献おとめ修道会を創立したゾフィア・チェスカ・マチェヨフスカ(1584-1650年)と、19世紀に聖なるおとめマリア礼拝子女修道会を創立したマウゴルザタ・ルチア・セヴチク(1828-1905年)です。クラクフの教会とともに主に感謝します」。

なお、6月6日(木)、教皇公邸管理部は、教皇の夏季の予定について発表しました。夏季休暇中、すべての個人謁見と特別謁見はありません。7月中、3日、10日、17日および31日の水曜一般謁見はありません。一般謁見は8月7日(水)から再開されます。7月22日(月)から29日(月)まで、教皇は第28回WYD(ワールドユースデー)参加のためブラジルを訪問します。7月14日(日)、教皇は、カステル・ガンドルフォ教皇公邸で「お告げの祈り」を行います。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。今日は。

 6月は伝統的にイエスのみ心にささげられた月です。イエスのみ心は、神の愛に関する最高の人間的な表現です。実際わたしたちは、先週の金曜日(6月7日)にイエスのみ心の祭日を祝いました。この祭日が6月全体を特徴づけます。民間信心はさまざまな象徴を大切にします。イエスのみ心は神のあわれみに関する優れた意味での象徴です。しかし、それは単なるイメージとしての象徴ではありません。それは現実的な象徴です。全人類のための救いがそこから流れ出る、中心また泉を表すからです。
 福音書にはイエスのみ心に対するさまざまな言及が見られます。たとえば、ある箇所でキリストご自身がこういわれます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタイ11・28-29)。さらに、ヨハネによるキリストのご死去の記事が根本的です。実際、福音書記者ヨハネはカルワリオ(されこうべ)で自らが見たことをあかしします。すなわち、イエスがすでに死んでおられたので、一人の兵士が槍でイエスの脇腹を刺すと、そこから血と水とが流れ出ました(ヨハネ19・33-34参照)。ヨハネは、偶然的に見えるこのしるしのうちに、預言の成就を認めました。十字架上のいけにえの小羊であるイエスのみ心から、人類全体に対するゆるしといのちがあふれ出るのです。
 しかし、イエスのあわれみは単なる感情ではありません。それは、いのちを与え、人間をよみがえらせる力です。今日の福音のナインのやもめの記事(ルカ7・11-17)も、このことを語ります。イエスが弟子たちとともにガリラヤのナインという町に着くと、ちょうど葬式が行われているところでした。やもめの女の一人息子である若い男を入れた棺が担ぎ出されました。イエスはすぐに涙に暮れる母親に目を留めます。福音書記者ルカはいいます。「主はこの母親を見て、あわれに思った」(13節)。この「同情」が、人間に対する神の愛です。わたしたち人間の悲惨、困窮、苦しみ、悲しみに対する神の態度である、あわれみです。聖書における「同情」ということばは、母胎を思い起こさせます。実際、母親は、自分の子どもが苦しむのを見て、特別な反応を示します。聖書は、これが神がわたしたちを愛するしかただと述べるのです。
 この愛とあわれみが生み出すものは何でしょうか。それは、いのちです。イエスはナインのやもめに向かっていいます。「もう泣かなくともよい」。それから死んだ若者に呼びかけて、眠りから覚ますように生き返らせます(13-15節参照)。このことを考えてみたいと思います。それはすばらしいことです。神のあわれみは人間にいのちを与え、死からよみがえらせます。主はいつもあわれみをもってわたしたちをご覧になります。主はわたしたちを忘れることなく、いつもあわれみをもってご覧になります。あわれみをもってわたしたちを待っておられます。主に近づくことを恐れてはなりません。主はあわれみ深い心をもっておられます。わたしたちが自分の内的な傷を、罪を主に示すなら、主はつねにわたしたちをゆるしてくださいます。主は純粋なあわれみです。イエスのほうへ歩もうではありませんか。
 おとめマリアに目を向けたいと思います。マリアの無原罪のみ心、母としてのみ心は、神の「同情」を限りなく共有しました。とくにイエスの受難と死のときに。マリアよ、わたしたちを助けてください。わたしたちが兄弟に対して柔和で謙遜であわれみ深い者となることができますように。

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