教皇フランシスコの13回目の一般謁見演説 キリストのからだとしての教会

6月19日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの13回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月29日から開始した「教会の神秘」に関する連続講話の3回目として「キリストのからだと […]

6月19日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの13回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月29日から開始した「教会の神秘」に関する連続講話の3回目として「キリストのからだとしての教会」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇は、イタリア語で次の呼びかけを行いました。
「明日(6月20日)は『世界難民の日』です。今年わたしたちは、暴力や迫害、また宗教的信仰、民族集団への帰属、政治的信念を理由とする深刻な差別から逃れるために、自分の家と故郷を急いで離れ、自分の財産と安定を捨てることをしばしば余儀なくされた、難民の家族の状況をとくに考察するよう招かれます。これらの家族は、移動の危険に加えて、しばしば離散の危険にさらされ、また彼らの受け入れ国においては、自らのものと異なる文化と社会に直面しなければなりません。これらの家族と、わたしたちの兄弟姉妹である難民に無関心であってはなりません。わたしたちは彼らを助け、心を開いて彼らを理解し、もてなすよう招かれています。難民の家族を助ける人と組織が世界中で不足することがありませんように。難民の顔のうちにはキリストのみ顔が刻まれているのです。
 わたしたちは先の日曜日(6月16日)、『信仰年』にあたって、いのちそのものであり、いのちの泉である神と、わたしたちに神のいのちを与えるキリストと、わたしたちがまことの神の子としての生きた関係をもち続けられるようにしてくださる聖霊を賛美しました。あらためてすべての人に呼びかけたいと思います。『いのちの福音』を受け入れ、あかししてください。あらゆる次元、あらゆる段階におけるいのちを守ることを推進してください。キリスト信者とは、いのちに対して、また生けるかたである神に対して『然り』と言う者です」。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 今日は、第二バチカン公会議が教会の本性を示す際に用いたもう一つの表現、すなわち「からだ」について考察します。公会議は、教会はキリストのからだだと述べています(『教会憲章』7参照)。
 わたしたちがよく知っている使徒言行録のテキストから出発したいと思います。すなわち、後にもっとも偉大な福音宣教者としてパウロを呼ばれることになる、サウロの回心です(使徒言行録9・4-5参照)。サウロはキリスト信者の迫害者でしたが、ダマスコの町に向かう道を歩む途中、突然、光に包まれ、地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声を聞きます。サウロはこたえます。「主よ、あなたはどなたですか」。すると声はこたえます。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(3-5節)。この聖パウロの体験は、わたしたちキリスト信者とキリストご自身との一致の深さを示します。イエスは天に昇られるとき、わたしたちをみなしごにはせず、むしろ聖霊のたまものをもってご自身との一致をいっそう強めてくださいました。第二バチカン公会議はいいます。イエスは「ご自分の霊を与えることによって、諸国民のうちから呼び集めた自分の兄弟たちを、自分のからだとして神秘的に構成されたのである」(『教会憲章』7)。
 からだというイメージは、教会とキリストのこの深いつながりを理解する助けとなります。聖パウロはこれをコリントの信徒への手紙一の中でとくに発展させました(同12章参照)。第一に、からだは生きた現実を思い起こさせます。教会は援助団体でも文化団体でも政治団体でもありません。むしろそれは、歴史の中を歩み、活動する、生きたからだです。このからだにはイエスという頭があります。イエスがこのからだを導き、養い、支えるのです。わたしが強調したい点はこれです。頭をからだの他の部分から切り離すなら、人格全体は生きていけません。教会の場合もそれと同じです。わたしたちはますます強くイエスと結ばれ続けなければなりません。しかし、それだけではありません。からだにおいては血液の循環が生きていくために重要です。それと同じように、わたしたちも、イエスに自分たちのうちで働いていただかなければなりません。イエスのことばに導いていただかなければなりません。イエスの聖体の現存によって養われ、促されなければなりません。イエスの愛が、隣人を愛する力とならなければなりません。それも、つねに。親愛なる兄弟姉妹の皆様。イエスと結ばれようではありませんか。イエスに信頼しようではありませんか。イエスの福音に従って生活を方向づけようではありませんか。日々祈り、神のことばを聞き、秘跡にあずかることによって養われながら。
 ここで、キリストのからだとしての教会のもう一つの側面に到達します。聖パウロはいいます。人間のからだの部分は、たとえ異なり、数は多くても、一つのからだを形づくります。それと同じように、わたしたちは皆、一つの霊によって、一つのからだとなるために洗礼を受けます(一コリント12・12-13参照)。それゆえ教会にも多様性があります。異なる任務と職務があります。そこには、画一的な平板さではなく、聖霊が与えるたまものの豊かさが存在します。けれども、そこには交わりと一致が存在します。すべての人は互いにかかわり合い、キリストと深く結ばれながら、皆が協力して生きた一つのからだを形づくります。次のことを銘記しなければなりません。教会の部分であるとは、キリストと一つに結ばれ、キリストから神のいのちを受けるということです。この神のいのちが、わたしたちにキリスト信者として生きることを可能にします。教会の部分であるとは、一致と交わりの道具である教皇と司教と一つに結ばれていることです。それは、個人主義と分裂を乗り越え、相互理解を深め、各自の多様性と豊かさを調和させることを学ぶことでもあります。一言でいうなら、それは、家庭、小教区、さまざまな会の中で、神と、近くにいる人の善を望むことです。頭と部分とは、生きていくために一つに結ばれていなければなりません。一致はつねに対立にまさります。対立をすっかり解消しなければ、それはわたしたちを互いに分裂させ、神から切り離します。対立は成長の助けとなることもありますが、自分たちの分裂を招くこともあります。分裂と内輪もめの道を歩んではなりません。わたしたちは皆、違いがあっても一致しなければなりません。つねに一致しなければなりません。これがイエスの道です。一致は対立にまさります。一致は、わたしたちが主に願い求めなければならないたまものです。それは、わたしたちが分裂、内部闘争、利己主義、悪口への誘惑から解放されるためです。悪口はきわめて有害です。他人の悪口を言ってはなりません。キリスト者どうしの分裂、党派性、自己の利益の追求が、どれほどの損害を教会に与えることでしょうか。
 自分たちの分裂だけでなく、共同体どうしの分裂もあります。福音派のキリスト者、正教会のキリスト者、カトリックのキリスト者は、なぜ分裂しているのでしょうか。わたしたちは一致をもたらそうと求めなければなりません。一つのことを皆様に申し上げたいと思います。今日、宿舎を出る前に、わたしは40分ほど、少なくとも30分以上、福音派の司牧者と過ごし、ともに祈り、一致を願いました。わたしたちは、カトリック信者どうしだけでなく、他のキリスト者とも、ともに祈らなければなりません。主がわたしたちに一致を、わたしたちの一致を与えてくださるよう祈らなければなりません。しかし、わたしたちがカトリック信者どうし、あるいは家族の中で一致せずにいて、どうしてキリスト者の一致に達することができるでしょうか。どれほど多くの家族が争い、分裂していることでしょうか。一致を求めてください。教会の一致を求めてください。一致はイエス・キリストからもたらされます。キリストは、一致を築くために、わたしたちに聖霊を遣わしてくださるからです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。神に願おうではありませんか。わたしたちを助けてください。つねにキリストと深く結ばれた、教会のからだの部分となることができますように。わたしたちを助けてください。対立、分裂、利己主義によって教会のからだを苦しめることがありませんように。わたしたちを助けてください。聖霊がわたしたちの心に注ぐ愛の唯一の力によって(ローマ5・5参照)、互いに結び合わされた生きた部分となることができますように。

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