教皇フランシスコの14回目の一般謁見演説 聖霊の神殿としての教会

6月26日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの14回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月29日から開始した「教会の神秘」に関する連続講話の4回目として「聖霊の神殿としての […]

6月26日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの14回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月29日から開始した「教会の神秘」に関する連続講話の4回目として「聖霊の神殿としての教会」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。
―――

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 今日は、教会の神秘を説明する助けとなる、もう一つのイメージについて簡単にお話ししたいと思います。すなわち、聖霊の神殿です(第二バチカン公会議『教会に関する教義憲章』6参照)。
 わたしたちは神殿ということばを聞いて何を思い浮かべるでしょうか。わたしたちは一つの建物、建築を思い浮かべます。とくに多くの人は、旧約で語られるイスラエルの民の物語のことを考えます。エルサレムにおいて、偉大なソロモンの神殿は祈りのうちに神と出会う場所でした。神殿の内部には、民のただ中に神が現存することを表すしるしである、契約の箱が置かれていました。箱の中には、律法の板とマナとアロンの杖が安置されていました。それは、神がご自分の民の歴史の中につねにおられ、民とともに歩み、その歩みを導いたことを思い起こさせるものでした。神殿はこの歴史を思い起こさせます。わたしたちも神殿に赴く際に、この歴史を思い起こさなければなりません。わたしたちには皆、それぞれ自分の歴史があります。イエスがどのようにわたしと出会ってくださったか。イエスがどのようにわたしとともに歩んでくださったか。イエスがどのようにわたしを愛し、祝福してくださったかという歴史です。
 さて、旧約の神殿であらかじめ表されたものは、教会において聖霊の力によって実現されました。教会は「神の家」です。神の現存の場です。わたしたちはそこで主を見いだし、主と出会うことができます。教会は聖霊が住まわれる神殿です。聖霊はこの神殿を動かし、導き、支えます。わたしたちはどこで神と出会うことができるのか。どこでキリストを通して神と交わりをもつことができるのか。どこでわたしたちの人生を照らす聖霊の光を見いだすことができるのか。この問いに対する答えはこれです。それは、神の民であるわたしたちのうちにおいてです。わたしたちは教会だからです。わたしたちはこの教会において、イエスと聖霊と御父と出会います。
 旧約の神殿は人の手で建てられました。人々は神のために「家を建てる」ことを望みました。それは、民のただ中に神が現存することを表す、目に見えるしるしを手にするためです。神の子の受肉により、ダビデ王に対するナタンの預言が成就します(サムエル記下7・1-29参照)。「神のために家を建てる」のは、王でもわたしたちでもありません。神ご自身が「ご自分の家を建てる」のです。それは、聖ヨハネが福音の中で述べたとおり、来て、わたしたちのただ中に宿るためです(ヨハネ1・14参照)。キリストは御父の生ける神殿です。そしてキリストご自身がご自分の「霊的な家」である教会を建てられます。この教会は、物質的な石ではなく、「生きた石」、すなわちわたしたちからできています。使徒パウロはエフェソのキリスト者に向けてこう述べます。あなたがたは「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエスご自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたもともに建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」(エフェソ2・20-22)。なんとすばらしいことでしょうか。わたしたちは、キリストと深く結び合わされた、神の建物の生きた石です。キリストは土台の石であり、それもわたしたちのただ中にある土台です。それはこういうことです。神殿とはわたしたちです。わたしたちが生きた教会です。生きた神殿です。そして、わたしたちがともにいるとき、聖霊もともにいてくださいます。そして、わたしたちが教会として成長するのを助けてくださいます。わたしたちは独りきりではありません。むしろわたしたちは神の民です。これこそが教会です。
 さらに聖霊は、ご自身のさまざまなたまものをもって、教会が多様であることを望みます。このことは重要です。聖霊はわたしたちの中で何をなさるのでしょうか。聖霊は、わたしたちが多様であることを望みます。多様性は教会の豊かさだからです。また聖霊は、すべてのもの、すべての人を一つに結びつけて、霊的な神殿を築かせます。この神殿の中で、わたしたちは物質的ないけにえではなく、わたしたち自身を、すなわちわたしたちの生活をささげます(一ペトロ2・4-5参照)。教会は、物や利害の組み合わせではなく、聖霊の神殿です。神がその中で働く神殿です。この神殿の中で、わたしたち一人ひとりは、洗礼のたまものによって、生きた石となります。そこから次のことがいえます。教会の中で無用の人などだれもいません。だれかが他の人に「帰りなさい。あなたは無用です」というようなことがあれば、それは真実ではありません。すべての人がこの神殿を建てるために必要です。どうでもよい人などだれもいません。教会の中でもっとも重要な人もいません。わたしたちは皆、神の目から見て平等です。あなたがたのうちでこういう人がいるかもしれません。「教皇様、あなたはわたしたちと同等ではありません」。いいえ、わたしも皆様と同等です。わたしたちは皆、平等です。わたしたちは兄弟です。無名の人など、だれもいません。わたしたち皆が、教会を構成し、築くのです。これは次のことも考えさせてくれます。わたしたちのキリスト教的生活の煉瓦(れんが)が欠けていれば、教会の美にも何かが欠けていることになります。だれかが「わたしは教会と関係がない」というなら、この美しい神殿から一つの生活の煉瓦が抜け落ちたことになります。だれも教会から出て行ってはなりません。わたしたちは皆、自分の生活と、心と、愛と、思考と、労働を、教会にもたらさなければなりません。わたしはともにそうしなければなりません。
 そこでわたしたちは自らに問いかけたいと思います。わたしたちは自分が教会であることをどのように生きているでしょうか。わたしたちは生きた石となっているでしょうか。それとも、いわば疲れた石、退屈した石、無関心な石となっているでしょうか。疲れた、退屈した、無関心なキリスト信者は、見苦しくはないでしょうか。このようなキリスト信者となっていけません。キリスト信者は生き生きとしていなければなりません。キリスト信者であることを喜んでいなければなりません。教会という、神の民の一部であることのすばらしさを生きなければなりません。わたしたちは、聖霊のわざに心を開き、自分の共同体の活発な部分となっているでしょうか。それとも、「わたしにはやることがたくさんあります。それがわたしの仕事でしょうか」と言って、自分のうちに閉じこもっているでしょうか。
 主がわたしたち皆にご自身の恵みと力を与えてくださいますように。こうしてわたしたちが、わたしたちの生活と、教会生活全体のかなめ石、支柱、土台の石であるキリストと深く結ばれることができますように。祈りたいと思います。わたしたちが主の霊に促されて、つねに主の教会の生きた石となることができますように。

PAGE TOP