教皇フランシスコの2013年7月7日の「お告げの祈り」のことば 福音をのべ伝える喜び

教皇フランシスコは、年間第14主日の7月7日(日)午前9時30分から、サンピエトロ大聖堂で、「信仰年」行事として「神学生、男女修練者、召命の道を歩む人々の日」のためのミサをささげた後、正午に教皇公邸書斎の窓から、サンピエ […]

教皇フランシスコは、年間第14主日の7月7日(日)午前9時30分から、サンピエトロ大聖堂で、「信仰年」行事として「神学生、男女修練者、召命の道を歩む人々の日」のためのミサをささげた後、正午に教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「ご存じのとおり、二日前、信仰をテーマとする回勅を公布しました。回勅の標題は『信仰の光』(Lumen fidei)です。教皇ベネディクト十六世は『信仰年』のために、愛と希望についての回勅に続く、この回勅を書き始めました。わたしはこの労作を受け止め、完成させました。この回勅を神の民全体に喜びをもって示します。実際、とくに現代において、わたしたちは、キリスト教信仰の本質を訪ね、深く考察し、現代の諸問題とともに検討しなければなりません。ところで、今回の回勅の少なくとも一部は、神と人生の意味を探求する人々にも役立つと思います。わたしはこの回勅を、信仰の完全な鏡であるマリアのみ手にゆだねます。この回勅が主の望まれる実りを結ぶことができますように。
 親愛なるローマの信者の皆様と巡礼者の皆様に心からごあいさつ申し上げます。とくにリオデジャネイロでのWYD(ワールドユースデー)に向けて出発の準備をしておられるローマ教区の若者にごあいさつ申し上げます。親愛なる若者の皆様。わたしも準備しています。この偉大な信仰の祭典に向けてともに歩んでまいりましょう。聖母がわたしたちとともに歩んでくださいますように。リオデジャネイロでお会いしましょう」。

なお、先に教皇公邸管理部は6月6日に教皇の夏季休暇中の予定を発表しましたが、その後7月1日に、8月7日、14日、21日、28日の水曜一般謁見は行われず、一般謁見は9月4日から再開されることを発表しました。教皇は8月中も日曜日の「お告げの祈り」は行い、また8月15日(木)にはカステル・ガンドルフォの小教区で聖母被昇天の祭日のミサをささげます。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。今日は。

 まず、昨日と今日、「信仰年」の特別な巡礼者と会見できた喜びを皆様と分かち合いたいと思います。それは神学生と男女修練者から成る巡礼者です。彼らのために祈ってくださるよう皆様にお願いします。キリストの愛がますます彼らの生活の中で成長し、彼らが神の国のまことの宣教者となりますように。
 今日の主日の福音(ルカ10・2-12、17-20)は次のことをわたしたちに語ります。イエスは独りきりの宣教者ではありません。イエスは独りでご自分の使命を果たそうとは望みません。むしろ、ご自分の弟子をかかわらせます。今日わたしたちは、イエスが十二使徒以外に七十二人を招いて、神の国が近づいたことを告げ知らせるために、二人ずつ村々に遣わされたのを目にします。これはとてもすばらしいことです。イエスは独りで行動することを望みません。イエスは神の愛を世にもたらすために来られました。そして交わりの様式をもって、兄弟愛の様式をもって、この神の愛を広めようと望みます。そのためイエスはただちに弟子の共同体を作ります。すなわち宣教する共同体です。イエスはただちに彼らを宣教のために出かけられるように訓練します。
 しかし、注意すべきことがあります。弟子たちの目的は、人々と付き合うこと、ともに時間を過ごすことではありません。彼らの目的は、神の国をのべ伝えることです。そしてそれは緊急に必要とされています。それは現代においても緊急に必要とされています。おしゃべりで失ってよい時間はありません。すべての人の同意を待つことなく、出かけて行き、のべ伝えなければなりません。キリストの平和はすべての人のためにもたらされます。人々がこのキリストの平和を受け入れなければ、ものごとは変わりません。病気の人をいやすのは、神がすべての悪から人間をいやすことを望むからです。どれほど多くの宣教者が、このようないやしを行っていることでしょうか。彼らは世界の果てにまで行って、いのちと健康と慰めの種を蒔(ま)いています。なんとすばらしいことでしょうか。彼らは自分のために生きるのではなく、出かけて行って、よいことを行うために生きるのです。今日このサンピエトロ広場には多くの若者がおられます。このことを考えてください。自らに問いかけてください。イエスは、出かけて行き、自分から出て、よいことを行うよう、わたしを招いているのではないでしょうか。若者の皆様にお尋ねします。皆様には、このようなことを行う勇気があるでしょうか。イエスのみ声を聞く勇気があるでしょうか。宣教者となるのはすばらしいことです。勇気をもってください。それはすばらしいことです。
 イエスがご自分に先立って遣わしたこの七十二人とは、いかなる人々でしょうか。彼らはだれを表しているのでしょうか。十二人は、使徒であり、それゆえ司教たちを表します。そうであれば、この七十二人は他の叙階された役務者である、司祭と助祭を表すといえます。しかし、もっと広い意味で、わたしたちは、教会の他の奉仕者のことを考えることができます。すなわち、カテキスタ、小教区での宣教にかかわる信徒、病者やさまざまな障害者、社会から除け者にされた人のために働く人々です。しかし、これらの人々もつねに、み国が近づいていることを緊急に告げ知らせようとする、福音の宣教者です。すべての人は宣教者とならなければなりません。すべての人は、イエスの招きを聞いて、出かけて行き、み国をのべ伝えることが可能です。
 福音書はいいます。七十二人は喜びに満ちて帰って来ました。彼らは悪に対するキリストのみ名の力を体験したからです。イエスもそのことを確認します。イエスはこれらの弟子たちに、悪い者を打ち負かす力を与えます。しかしイエスは付け加えていいます。「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10・20)。わたしたちは自分が中心人物であるかのように自慢してはなりません。中心となるのは、主ただ一人です。中心となるのは、主の恵みです。主のみが、唯一の中心です。主の弟子であること、主の友であること――わたしたちの喜びもそれに尽きます。聖母の助けによって、わたしたちがよい福音の働き手となることができますように。
 親愛なる友人の皆様。喜んでください。喜ぶことを恐れてはなりません。喜びを恐れてはなりません。主に人生の中に入っていただき、自分から出て、人生の果てにまで赴き、福音をのべ伝えるよう招いていただくとき、主はこの喜びを与えてくださいます。喜びを恐れてはなりません。喜びと勇気をもってください。

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