教皇フランシスコの2013年8月11日の「お告げの祈り」のことば  あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もある

教皇フランシスコは、年間第19主日の8月11日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語) […]

教皇フランシスコは、年間第19主日の8月11日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  次の木曜日(8月15日)が聖母の被昇天の祭日であることを思い起こそうではありませんか。わたしたちはイエスとともに天に到達したかたである聖母に思いを向けます。聖母とともにこの祭日を祝いたいと思います。
  わたしたちの兄弟である、全世界のムスリムの皆様にごあいさつ申し上げます。皆様は数日前にラマダン月を終えられました。ラマダン月は特別なしかたで断食と祈りと施しにささげられます。この機会に発表したメッセージの中で書いたように、キリスト教徒とムスリムが、とくに若い世代の教育を通じて、相互の尊重を深めるよう努められるように願います」。
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  親愛なる兄弟姉妹の皆様。今日は。

 今日の主日の福音(ルカ12・32-48)は、キリストとの決定的な出会いへの望みについてわたしたちに語ります。この望みはつねに目覚めた心をもってわたしたちを準備させます。わたしたちは全身全霊をもってこの出会いを待ち望むからです。これこそが人生の根本的な側面です。これはわたしたちが皆、はっきりとであれ、隠れたしかたであれ、心に抱いている望みです。わたしたちは皆、この望みを心に抱いています。
  このイエスの教えを、彼がそれを伝えた具体的かつ実存的な状況から見ることも重要です。この箇所でルカは次のことを示します。イエスは、弟子たちとともにエルサレムに向けて、すなわち死と復活の過越に向けて歩んでいました。この歩みの中でイエスは弟子たちを教育します。そして、ご自分が心にいだいておられたこと、ご自分の心の深い姿勢を彼らに伝えます。この姿勢とは、地上の富からの離脱、御父の摂理への信頼、内的に目覚めていること、神の国を生き生きと待ち望むことです。イエスにとって、それは父の家に帰るのを待ち望むことです。わたしたちにとって、それはキリストご自身を待ち望むことです。キリストは来て、わたしたちを受け入れ、終わりのない宴へと導いてくださいます。すでに至聖なる母マリアになさったのと同じように。キリストはマリアをご自身とともに天に導いたのです。
  今日の福音はわたしたちに次のことを語ろうとします。キリスト信者は自らのうちに偉大な望みを抱いています。それは深い望みです。すなわち、自分の兄弟や同行者とともに主と出会いたいという望みです。イエスがわたしたちに語るこれらすべてのことは、イエスの述べた有名なことばに要約されます。「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」(ルカ12・34)。心は望みを抱きます。ところで、わたしたちは皆、望みを抱いています。貧しい人とは、望みをもたない人のことです。望みとは、未来に向けて進みたいということです。そしてわたしたちキリスト信者にとって、この未来とは、イエスと出会うことです。イエスとまことに出会うことです。イエスはわたしたちのいのちであり、喜びであり、幸福をもたらすかたです。ところで、二つの質問をしたいと思います。第一の質問はこれです。皆様は望みに満ちた心、望む心をもっておられるでしょうか。考えて、心のうちで沈黙のうちに答えてください。あなたは望む心をもっておられますか。それとも、あなたの心は閉ざされ、眠り込み、いのちにかかわることに対して無感覚でしょうか。望みとは、前に進んで、イエスと出会いたいということです。第二の質問はこれです。あなたの富のあるところ、あなたが望みを置くところはどこでしょうか。イエスはこういわれたからです。「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」。そこでわたしは質問したのです。あなたの富のあるところはどこでしょうか。あなたにとってもっとも重要なこと、もっとも貴重なこと、磁石のように自分の心を引きつけるものは何でしょうか。あなたの心を引きつけるのは何でしょうか。それは神の愛だということができるでしょうか。他の人によいことをしたい、主のため、自分の兄弟たちのために生きたいという望みをもっているでしょうか。そういうことができるでしょうか。おのおの心の中で答えてください。しかし、わたしにこういう人がいるかもしれません。教皇様。わたしには仕事があり、家族がいます。わたしにとってもっとも大事なのは、家族を養うことと仕事です。・・・・確かにそのとおりで、それも大事です。しかし、家族を一致させる力は何でしょうか。それは愛です。神はわたしたちの心に愛の種を蒔(ま)きます。神の愛の種を蒔きます。この神の愛こそが、日々のささやかな仕事に意味を与え、深刻な試練に立ち向かう助けともなるのです。これこそが人間のまことの宝です。それは、愛をもって、主が心に蒔いた愛をもって、神の愛をもって人生を歩むことです。ところで、神の愛とは何でしょうか。それは漠然としたものでも、あいまいな感情でもありません。神の愛には名前と顔があります。すなわち、イエス・キリストです。イエスです。神の愛はイエスのうちに現されます。わたしたちは空気を愛することができないからです。空気を愛しますか。あらゆるものを愛しますか。いいえ、そんなことはできません。わたしたちはあるかたを愛します。そして、わたしたちの愛するかたは、イエスです。わたしたちのただ中におられる御父のたまものです。神の愛は、他のすべてのものに価値と美を与えます。この愛は、家族、仕事、勉学、友情、芸術、そしてすべての人間活動に力を与えます。それはマイナスな経験にも意味を与えます。この愛は、そうした経験を乗り越えさせ、悪に捕らわれたままでいないようにしてくれます。むしろ、わたしたちを前進させ、つねに希望へと心を開かせてくれます。そうです。イエスにおける神の愛は、わたしたちの心をつねに希望へと開きます。希望の地平、わたしたちの旅の最終目的へと開きます。それゆえ、労苦と失敗にも意味があります。わたしたちが犯す罪も、神の愛のうちに意味を見いだします。このイエス・キリストにおける神の愛は、つねにわたしたちをゆるしてくださるからです。この愛は、つねにわたしたちをゆるすほど、わたしたちを愛してくださるからです。
  親愛なる兄弟の皆様。今日、教会はアッシジのクララ(1193/1194-1253年)を記念します。クララはフランチェスコ(1181/1182-1226年)の後に従って、すべてを捨て、清貧のうちに自らをキリストにささげました。聖クララは今日の福音に関するもっともすばらしいあかしをわたしたちに示します。クララとおとめマリアの助けによって、わたしたちもおのおのの召命に従ってこの福音を生きることができますように。

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