教皇フランシスコの2013年8月18日の「お告げの祈り」のことば わたしは分裂をもたらすために来た

教皇フランシスコは、年間第20主日の8月18日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語) […]

教皇フランシスコは、年間第20主日の8月18日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「次のことを心にとめたいと思います。イエスに従うとは中立的であることではありません。イエスに従うとは、自分を賭けることです。信仰は飾りではなく、魂の力だからです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 心からローマと巡礼者の皆様にごあいさつ申し上げます。家族、小教区のグループ、若者の皆様。
 フィリピンでのフェリーの沈没の犠牲者のため、深い悲しみのうちにあるご遺族のために祈ってくださるようお願いしたいと思います。
 エジプトの平和のためにも祈り続けたいと思います。平和の元后であるマリア。わたしたちのためにお祈りください」。

フィリピン中部セブ島沖のマクタン海峡で8月16日(金)午後9時頃、フェリーと貨物船が衝突、フェリーが沈没した事故で、同国沿岸警備隊当局は19日までに、犠牲者が38人、82人が行方不明であると発表しています。
エジプトでは8月14日(水)、治安部隊がムルスィー前大統領支持派のデモ隊の排除を行い、首都カイロ郊外や北部アレクサンドリアなどで夜間外出禁止令が出されている中、軍に反対するデモが行われ、8月20日現在、衝突による死者は全土で900人を超えています。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。今日は。

 今日の典礼の中で、わたしたちはヘブライ人への手紙の次のことばを耳にしました。「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブライ12・1-2)。これは「信仰年」にあたってわたしたちが特別に強調しなければならないことばです。わたしたちも「信仰年」を通して、イエスを見つめ続けなければなりません。信仰は、わたしたちが神と子としての関係をもつことに対して「然り」ということです。ですから信仰は神に由来します。イエスに由来します。イエスこそが、わたしたちと、天におられるわたしたちの父との、この子としての関係の唯一の仲介者です。イエスは御子です。わたしたちはこのイエスと結ばれて子なのです。
 しかし、今日の主日の神のことばは、わたしたちを危機に陥れ、誤解を生じないために説明を要するイエスのことばも含んでいます。イエスは弟子たちにいいます。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。いっておくが、むしろ分裂だ」(ルカ12・51)。これはどういう意味でしょうか。このことばの意味はこういうことです。信仰は飾りや装飾ではありません。信仰を生きるとは、ささやかな信心で生活を飾ることではありません。それは、信仰がパイ生地で、生クリームでそれを飾るかのようなものです。そうではありません。信仰はそのようなものではありません。信仰は、神を人生の基準・基盤として選び取ることを伴います。神は空虚なものでも中立的なものでもありません。神はつねに肯定的です。神は愛です。そして愛は肯定的です。イエスが世に来られた後、わたしたちは、神を知らないかのように振る舞うことはできません。神が抽象的で空虚で名前にすぎないものであるかのように振る舞うことはできません。まことに、神は具体的なみ顔をもっておられます。名前をもっておられます。神はあわれみです。神は忠実です。わたしたち皆に与えられたいのちです。だからイエスはいいます。わたしは分裂をもたらすために来たのだ、と。イエスは人間を互いに分裂させることを望んでおられません。むしろその反対です。イエスはわたしたちの平和です。わたしたちの和解です。しかし、この平和は墓場の平和でも、中立的な平和でもありません。イエスは中立をもたらすのではありません。イエスの平和は、妥協ではありません。イエスに従うとは、悪と利己主義を拒絶し、善と真理と正義を選ぶことです。たとえそれが犠牲と、自分の利害を捨てることを要求しても。確かにそれは分裂をもたらします。わたしたちは、それがもっとも密接な絆をも分裂させることを知っています。しかし、注意すべきことがあります。分裂させるのはイエスではありません。イエスは基準を示します。自分のために生きるか、神と他の人々のために生きるか。仕えられるか、仕えるか。自分に従うか、神に従うか。その意味で、イエスは「反対を受けるしるし」(ルカ2・34)なのです。
 それゆえ、今日の福音のことばは、信仰を広めるために力を行使することを正当化するものでは決してありません。むしろその反対です。キリスト信者の真の力は、真理と愛の力です。この力はあらゆる暴力の拒絶をもたらします。信仰と暴力は相いれません。しかし、信仰と勇気はともに歩みます。キリスト信者は非暴力的ですが、力があります。どのような勇気でしょうか。それは柔和の力、愛の力です。
 親愛なる友人の皆様。イエスの身内の中にも、ある意味でイエスの生き方と教えを受け入れない人がいました。福音書が語るとおりです(マルコ3・20-21参照)。しかし、イエスの母はつねにイエスに忠実に従い、心の目で、いと高きかたの子であるイエスとその神秘を見つめました。ついに、マリアの信仰のおかげで、イエスの親類は最初のキリスト教共同体に加わりました(使徒言行録1・14参照)。マリアに祈り願いたいと思います。わたしたちもあなたの助けによってイエスを見つめ、犠牲を払うことになってもつねにイエスに従うことができますように。

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