教皇フランシスコの2013年8月25日の「お告げの祈り」のことば 狭い戸口から入るように努めなさい

教皇フランシスコは、年間第21主日の8月25日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語) […]

教皇フランシスコは、年間第21主日の8月25日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で、化学兵器の使用への対応をめぐり緊張の高まるシリア情勢に関する呼びかけを行いました。
「深い苦悩と懸念をもってシリア情勢を見守り続けています。兄弟間の戦争における暴力の激化、この数日間の恐ろしい映像でわたしたち皆も目にすることのできる殺戮と残虐行為の増大により、わたしはあらためて声を大にして戦火の終息を求めるよう訴えかけずにいられません。問題解決のための希望の展望を開くのは、衝突ではなく、会談と対話を行う力です。わたしは心の奥底から、この紛争の犠牲者、苦しむすべての人々、とくに子どもに、祈りと連帯をもって寄り添うことを表明したいと思います。そして、平和への希望をつねに生き生きと保つように願います。国際社会に呼びかけます。この悲惨な状況をもっと敏感に感じ、愛するシリアが、この破壊と死の種を蒔きつつある戦争の解決を見いだすために、助けとなるよう全力を尽くしてください。
 ともに祈りたいと思います。平和の元后であるマリア。わたしたちのためにお祈りください」。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。今日は。

 今日の福音は、救いというテーマを考察するようわたしたちを招きます。イエスはガリラヤからエルサレムの町に上っていきます。すると途中で、ルカ福音書記者が述べるとおり、ある人が近づいてきて、こう尋ねます。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(ルカ13・23)。イエスはこの質問に直接にはお答えになりません。どれだけの人が救われるかを知ることが大事なのではありません。むしろ大事なのは、救いに至る道がどのようなものかを知ることです。だからイエスはこのとき質問に答えてこういわれます。「狭い戸口から入るように努めなさい。いっておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」(24節)。イエスは何をいおうとしておられるのでしょうか。わたしたちがそこから入らなければならない戸口とは何でしょうか。なぜイエスは狭い戸口について語られるのでしょうか。
 戸口というイメージは福音書の中で何度も現れます。このイメージは、わたしたちがそこに安らぎと愛と温かさを見いだす、家や庭の戸口を思い起こさせます。イエスはわたしたちにこう語ります。わたしたちが、神の家族、すなわち、温かい神の家、神との交わりに入ることを可能にする戸口があります。この戸口とは、イエスご自身です(ヨハネ10・9参照)。イエスこそが門です。イエスこそが救いに至る道です。イエスこそがわたしたちを御父へと導いてくださいます。そして、イエスという戸口は決して閉ざされません。それは、区別も排除も特別扱いもなしに、すべての人につねに開かれています。イエスはだれをも排除なさいません。こういう人がいるかもしれません。「でも教皇様。わたしが排除されているのは確かです。なぜなら、わたしは重い罪人だからです。わたしは生涯の中で多くの悪いことをしたからです」。いいえ。あなたも排除されません。まさにそうだからこそ、あなたは優先されるのです。なぜなら、イエスはつねに罪人を優先し、ゆるし、愛するからです。イエスはいつもあなたを待っておられます。あなたを抱擁し、ゆるすためです。恐れることはありません。イエスはあなたを待っておられます。立ち上がり、勇気をもってイエスの戸口から入ってください。すべての人がこの戸口を通るよう招かれています。すべての人が、信仰の門を通り、イエスのいのちに入るよう招かれています。またイエスにもわたしたちの人生に入っていただかなければなりません。それは、イエスがわたしたちの人生を造り変え、新たにし、完全で終わりのない喜びを与えてくださるためです。
 現代において、わたしたちは多くの戸口を通ります。これらの戸口は、幸福を約束しながら、わたしたちがそこから入るよう招きます。しかし、わたしたちはやがて、この幸福が一時的なものにすぎず、消滅して、未来をもたないことを見いだします。そこで、わたしは皆様にお尋ねします。わたしたちはどのような戸口から入ることを望むでしょうか。そして、わたしたちの人生の戸口からだれに入っていただくことを望むでしょうか。わたしは力を込めていいたいと思います。イエスへの信仰の門に入ることを恐れてはなりません。イエスにわたしたちの人生へとますます深く入っていただくのを恐れてはなりません。利己主義、閉ざされた心、他の人々への無関心を捨てるのを恐れてはなりません。なぜなら、イエスは消えることのない光をもってわたしたちの人生を照らしてくださるからです。この光は、花火やストロボの光ではありません。それは、いつまでも消えずにわたしたちに平和を与えてくれる、透みきった光です。それは、わたしたちがイエスという門から入るなら出会うことのできる光です。
 たしかにイエスという戸口は狭い戸口です。しかしそれは、この戸口が苦しみをもたらす場だからではありません。そうではありません。狭い戸口なのは、イエスがわたしたちに、心をイエスに開くことを求めるからです。自分たちが罪人であり、救いと、イエスのゆるしと愛を必要とすることを認めるよう求めるからです。それは、へりくだってイエスのあわれみを受け入れ、イエスによって新たにしていただくためです。福音書の中でイエスはわたしたちにいいます。キリスト者であるとは、ある「ラベル」がついていることではありません。皆様にお尋ねします。皆様はラベルだけのキリスト者ですか。それとも本物のキリスト者ですか。おのおの心の中で答えてください。ラベルだけのキリスト者となってはなりません。本物の、心からのキリスト者にならなければなりません。キリスト者であるとは、祈り、愛のわざを行い、善を実現することを通じて正義を推進しながら、信仰を生き、あかしすることです。わたしたちは全生涯をもって、キリストという狭い戸口を通らなければなりません。
 天の門であるおとめマリアに祈り願います。あなたの助けによってわたしたちが信仰の門を通ることができますように。御子があなたの生涯を造り変えてくださったのと同じように、わたしたちの生活をも造り変えてくださり、わたしたちが福音の喜びをすべての人にもたらすことができますように。

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