教皇フランシスコの2013年9月8日の「お告げの祈り」のことば イエスの弟子の条件

教皇フランシスコは、年間第23主日の9月8日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。 […]

教皇フランシスコは、年間第23主日の9月8日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「さまざまなしかたで昨日(9月7日)の晩の祈りと断食に参加してくださったすべてのかたがたに感謝申し上げたいと思います。心を一つにして苦しみをささげてくださったすべての人に感謝します。それぞれの場で祈りと断食と考察のときを過ごされた国家当局、他のキリスト教共同体と他宗教の信者、善意の人々にも感謝します。
 しかし、課題は継続しています。祈りと平和のわざをもって前進しなければなりません。皆様にお願いします。シリアにおける暴力と破壊がただちに終息し、この内戦の公正な解決のためにさらなる努力がなされるよう、祈り続けてください。他の中東諸国、とくにレバノンのためにも祈りたいと思います。レバノンが安定を見いだし、平和共存のモデルとなり続けることができますように。イラクのためにも祈りたいと思います。党派間の暴力が和解へと道を譲りますように。イスラエルとパレスチナの人々の間の和平協議のためにも祈りたいと思います。和平協議が決断と勇気をもって進展しますように。エジプトのためにも祈りたいと思います。ムスリムもキリスト教徒も含めたすべてのエジプト国民が、ともに国民全体の善のために社会を築くよう努めることができますように。平和を追求する道は遠く、忍耐と堅忍を必要とします。祈りをもってともに歩んでいきましょう。
 昨日、ロヴィーゴで、マリア・ボロネージ(1924-1980年)が列福されたことを喜びをもって思い起こします。マリア・ボロネージはロヴィーゴの忠実な信徒で、1924年に生まれ、1980年に亡くなりました。全生涯を他の人々、とくに貧しい人、病気の人への奉仕にささげ、キリストのご受難との深い一致のうちに大きな苦痛を耐え忍びました。この福音の証人のゆえに神に感謝したいと思います」。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。今日は。

 今日の福音の中で、イエスは、弟子となるための条件を強調します。弟子となるための条件とは、イエスの愛のほかは何ものも優先しないこと、自分の十字架を担って、イエスに従うことです。実際、大勢の群衆がイエスに近づき、イエスに従いたいと望みました。このことはとくに、イエスがメシア、すなわちイスラエルの王であることを裏づけるいくつかの奇跡が行われた後に起きました。イエスは、エルサレムで自分を待ち受けていること、御父が自分に求める歩むべき道をよくご存じでした。それは十字架の道です。わたしたちの罪をゆるすために自分をいけにえとしてささげる道です。イエスに従うとは、勝利の行列に加わることではありません。それは、イエスのあわれみ深い愛を共有し、一人ひとりの人、すべての人に対するイエスの偉大なあわれみのわざにあずかることです。イエスのわざは、あわれみとゆるしと愛のわざにほかなりません。イエスはあわれみに満ちたかたです。このすべての人へのゆるしとあわれみは、十字架を通ります。イエスはこのわざを独りで果たそうとはしません。イエスは、御父がご自分にゆだねた使命にわたしたちもあずかることを望みます。復活の後、イエスは弟子たちにいいます。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。・・・・だれの罪でも、あなたがたがゆるせば、その罪はゆるされる」(ヨハネ20・21、22)。イエスの弟子はすべての財産を捨てます。弟子はイエスのうちにもっとも偉大な善を見いだしたからです。他のすべての善はこのもっとも偉大な善からそれぞれの完全な意味と価値を受け取ります。すなわち、家族のきずな、他のさまざまな関係、仕事、文化的・経済的な富などです。キリスト信者はすべてのものから離れ、福音の考え方のうちにすべてのものを再び見いだします。福音の考え方とは、愛と奉仕の考え方です。
 イエスはこのような生き方を説明するために二つのたとえを用います。塔を建てることについてのたとえと、戦いに行こうとする王のたとえです。後者のたとえはいいます。「どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいるあいだに使節を送って、和を求めるだろう」(ルカ14・31-32)。ここでイエスは戦いの話をしようとしているのではありません。これはたとえにすぎません。しかし、わたしたちが熱心に平和を祈り求めているこのときにあたり、この主のことばはわたしたちの心を打ちます。そしてその内容はわたしたちにこう語りかけます。わたしたち皆が戦わなければならない、深い意味での戦いがあります。それは、悪とその誘惑から離れ、自ら進んで犠牲になりながら善を選ぼうとする、強く勇気に満ちた決断です。キリストに従うとは、自分の十字架を担うことです。これが深い意味での悪との戦いです。この悪との深い意味での戦いを戦うことができなければ、戦争、それも多くの戦争はどこまで行くことでしょうか。この悪との戦いは、兄弟どうしの憎しみや、憎しみを促すいつわりに抗うことを求めます。あらゆる暴力に抗うことを求めます。武器の拡散と違法な武器売買に抗うことを求めます。このようなことがどれほど多く行われていることでしょうか。しかし、つねに疑問が残ります。あちこちで行われる戦争は――戦争は至るところに存在します――問題から生じる戦争なのか、それとも、違法な売買を通じて武器を売りつけるための、商売のための戦争なのか。これこそが、心を一つにして粘り強く戦わなければならない敵です。その際、平和と共通善以外のいかなる利害にも従ってはなりません。
 親愛なる兄弟の皆様。今日はおとめマリアの誕生の祝日でもあります。この祝日は東方教会で特別に愛されています。ここで、正教会とカトリック東方教会を含めた、東方教会のすべての兄弟姉妹、司教、修道者の皆様に心からのお祝いを申し上げたいと思います。イエスは太陽であり、マリアはこの太陽が昇るのを予告するあけぼのです。昨晩行った祈りで、わたしたちは、世界、とくにシリアと中東全体の平和のための祈りをマリアの執り成しにゆだねました。今、平和の元后であるマリアに祈り求めようではありませんか。平和の元后であるかた、わたしたちのためにお祈りください。

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