教皇フランシスコの2013年9月15日の「お告げの祈り」のことば 神のあわれみ

教皇フランシスコは、年間第24主日の9月15日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語) […]

教皇フランシスコは、年間第24主日の9月15日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 昨日(9月14日)、アルゼンチンでホセ・ガブリエル・ブロチェロ(José Gabriel Brochero 1840-1914年)が列福されました。ホセ・ガブリエル・ブロチェロはコルドバ教区の司祭で、1840年に生まれ、1914年に亡くなりました。キリストへの愛に促された彼は、深いあわれみと霊魂に対する熱意をもって、すべての人を神の国へと導くために、自分にゆだねられた群れのために全身全霊をもって献身しました。彼は民とともに生き、すべての人に黙想を行わせようと努めました。彼は何千キロを旅し、見栄えが悪かったために自ら「乱暴者」と呼んだラバに乗って山を超えました。雨が降っても彼は出かけました。彼には勇気がありました。しかし、この雨の中、ここにおられる皆様にも勇気があります。最後に、この福者は目が見えなくなり、ハンセン病を患いましたが、それでも彼は喜びに満たされていました。それはよい牧者であるかたの喜びであり、あわれみ深い牧者であるかたの喜びでした」。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。今日は。

 今日の典礼の中で、ルカによる福音書の15章が朗読されました。そこにはあわれみに関する三つのたとえ話が含まれます。見失った羊のたとえ、なくした銀貨のたとえ、そして、あらゆるたとえ話の中でもっとも長く、聖ルカ固有の、父と二人の息子のたとえです。二人の息子とは、「放蕩」息子と、自分は「正しく」聖なる者だと考えている息子のことです。三つのたとえ話は皆、神の喜びについて語ります。神は喜びに満ちています。これは興味深いことです。神は喜びに満ちているのです。神の喜びとは何でしょうか。神の喜びとは、ゆるすことです。それは、自分の羊を見つけた羊飼いの喜びです。自分の銀貨を見つけた女の喜びです。いなくなった息子を家に再び迎え入れた父の喜びです。息子は死んでいたのに生き返り、家に帰って来たからです。ここに福音書のすべてがあります。キリスト教のすべてがあります。けれども注意しなければならないことがあります。この喜びは、感情でも「善行主義」でもありません。むしろ反対に、あわれみは、人間と世界を、罪という「がん」から救う真の力です。罪とは、道徳的な悪、霊的な悪のことです。愛だけが虚無を満たします。虚無とは、悪が心と歴史の中に開いた、拒絶の深淵のことです。愛だけにそれが可能です。この愛こそが神の喜びです。
 イエスは完全なあわれみであり、完全な愛です。彼は人となった神だからです。わたしたちは皆、見失った羊であり、なくした銀貨です。わたしたちは皆、いつわりの偶像と幸福の幻想を追って自らの自由を浪費し、すべてを失った、あの息子です。しかし神はわたしたちを忘れません。御父は決してわたしたちを見捨てません。神は忍耐強い父であり、つねにわたしたちを待っていてくださいます。神はわたしたちの自由を尊重しますが、つねに忠実であり続けます。そして、わたしたちが立ち帰るなら、子としてご自分の家に迎え入れてくださいます。神は愛をもってわたしたちを待つことを片時もやめないからです。神の心は、子が立ち帰るとき、いつも喜び祝います。神が喜び祝うのは、それが喜ばしいことだからです。わたしたち罪人の一人が立ち帰って、ゆるしを願うとき、神は喜ぶのです。
 危険とはいかなるものでしょうか。危険とは、自分が正しいと考え、他の人を裁くことです。わたしたちは神をも裁くことがあります。わたしたちは、神が罪人を罰して、ゆるすどころか死に定めるはずだと考えるからです。だからわたしたちは父の家の外にとどまる危険があります。それはたとえ話の兄と同じです。彼は弟が帰って来たのを喜ばず、むしろ父が弟を迎え入れ喜び祝ったことに憤ります。わたしたちの心の中にあわれみとゆるしの喜びがなければ、たとえあらゆるおきてを守っても、神との交わりをもつことはできません。救いをもたらすのは、単におきてを実践することではなく、愛だからです。あらゆる律法を完成するのは、神と隣人への愛です。ゆるすこと――これこそが神の愛であり、神の喜びです。神はつねにわたしたちを待っておられます。心に重荷を感じる人がいるかもしれません。「でもわたしは、あんなこともこんなこともしたのです・・・・」。神はあなたを待っておられます。神は父です。神はつねにあなたを待っておられます。
 もしもわたしたちが「目には目を、歯には歯を」という法に従って生きるなら、悪の連鎖から逃れることができません。悪い者は狡猾です。彼は、わたしたちが自分の人間的正義でもって自らを救い、世を救えるかのように思い込ませます。実際には、わたしたちを救えるのは神の義だけです。そして神の義は十字架のうちに現されました。十字架こそが、わたしたち皆とこの世に対する神の裁きです。しかし、神はどのようにわたしたちを裁くのでしょうか。わたしたちにいのちを与えることによってです。これこそが、この世の悪魔を決定的に打ち負かした、最高の義のわざです。そしてこの最高の義のわざは、最高のあわれみのわざでもあります。「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい」(ルカ6・36)。イエスはこの道を歩むよう、すべての人を招きます。ここで一つのことを皆様にお願いします。沈黙のうちに考えてみてください。自分と関係のよくない人、その人に怒りを抱いている人、嫌いな人のことを考えてください。この人のことを考え、そして沈黙のうちに、今、この人のために祈ってください。この人に対してあわれみ深い者となってください。
 今、あわれみの母であるマリアの執り成しを祈り願いたいと思います。

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