教皇フランシスコの17回目の一般謁見演説 母である教会

9月18日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの17回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月29日から開始した「教会の神秘」に関する連続講話の6回目として「母である教会」につ […]

9月18日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの17回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月29日から開始した「教会の神秘」に関する連続講話の6回目として「母である教会」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇は、9月21日(土)の「国際平和デー」を前にして、イタリア語で次の呼びかけを行いました。
「毎年9月21日に国連は『国際平和デー』を行います。世界教会協議会は加盟教会に対して、この日に平和のために祈るよう呼びかけています。わたしは全世界のカトリック信者に対し、他のキリスト信者とともに、地球上でもっとも苦しめられている地域に平和のたまものが与えられるよう、神に祈り求め続けてくださるようお願いします。イエスが与えてくださる平和が、つねにわたしたちの心に宿り、諸国家指導者とすべての善意の人の意図と行動を支えてくださいますように。依然として憂慮すべき状態にある戦争の発生源に対して外交的・政治的解決を示すための努力を、皆で励まそうではありませんか。わたしの思いはとくに愛するシリア国民に向かいます。シリア国民の人道的悲劇は、正義と、すべての人とくに弱者と無防備な人の尊厳を尊重しつつ、対話と交渉を行うことによってしか解決できません」。
「国際平和デー」は1981年以降開催されています。当初は9月の第3火曜日(国連総会の通常会期が始まる日)でしたが、2001年から9月21日となり、全世界的な停戦の日とされました。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 今日はもう一度、母である教会というイメージに戻ります。わたしは、この母である教会というイメージがとても好きです。そのためこのイメージに立ち戻りたいと思います。それは、このイメージが、教会がどのようなものであるかをわたしたちに語るだけでなく、教会、すなわちわたしたちの母である教会が、どのような姿をますます示すべきかをも語ってくれるからです。

 三つのことを強調したいと思います。その際わたしはつねにわたしたちの母親に目を注ぎます。母親が行うこと、生きていること、子どものために苦労していることに。先週の水曜日に申し上げたことを繰り返します。母親は何をしているでしょうか。

 1 母親は何よりもまず、人生をどう歩むかを教えます。人生をよく歩むすべを教えます。母親は子どもを方向づけるすべを知っており、成長して大人になるために歩むべき人生の正しい道をつねに示そうと努めます。母親はそれを優しく、愛情と愛をもって行います。脇道にそれたり、谷底に落ちそうになったわたしたちの道を正すときでさえも。母親は、子どもが人生の道をよく歩むために何が大切かを知っています。しかも彼女はそれを書物からではなく自分の心から学びます。母親の大学は彼女の心です。彼女はそこで子どもを前進させるすべを学ぶのです。

 教会が行うのも同じことです。教会はわたしたちの人生を方向づけます。教会はよく歩むための教えをわたしたちに授けます。十戒のことを考えてみてください。十戒は、成長し、堅固な行動基準をもって歩むべき道をわたしたちに示します。十戒は、それを与えてくださった神の優しさと愛から生まれたものです。こういう人がいるかもしれません。そうはいっても、十戒は命令ではないか。すべて「してはならない」ではないか。わたしは、十戒を読んでくださるようお願いしたいと思います。一部忘れたかたもいるかもしれませんので。それから、十戒を積極的な意味で考えていただきたいと思います。そうすれば次のことが分かると思います。十戒は、神と、自分自身と、他の人々に対するわたしたちの行動様式について述べます。これは、母親が、よく生きるためにわたしたちに教えてくれることにほかなりません。十戒は、物質的な偶像を拝んではならないと招きます。偶像はやがてわたしたちを奴隷にするからです。神を思い起こし、父母を敬い、偽りをいわず、他の人を尊重するよう招きます。・・・・十戒をこのようなしかたで考えてみてください。そして、それが、母親が人生をよく歩むために与えてくれることばや教えであるかのように思ってください。母親は決して悪いことを教えません。彼女は子どもの善だけを望みます。教会が行うのも同じことです。

 2 二つ目のことをお話ししたいと思います。成長して大人になった子どもは、自分の道を選び、責任をとり、自分の足で歩きます。彼は自分の望むことを行いますが、時として道を踏み外すこともあります。ちょっとした事故を起こすこともあります。母親はどんな場合にも、つねに忍耐強く子どもに同伴し続けます。母親を促しているのは愛の力です。母親は、分別と優しさをもって子どもの歩みに従うすべを知っています。たとえ子どもが過ちを犯したときにも、彼女はつねに理解し、寄り添い、助ける方法を見いだします。わたしの母国アルゼンチンでは、母親は「守る」(dar la cara)ことができるといいます。どういう意味でしょうか。母親は自分の子どもの「側に立つ」ことができるということです。彼女はつねに子どもを弁護せずにはいられないということです。わたしは、牢獄にいる子どもや、困難な状況にある子どものために苦しむ母親のことを考えます。彼女は子どもが有罪かどうかを問題とはせず、子どもを愛し続け、しばしば屈辱を耐え忍びます。それでも彼女は恐れることなく、自分を与えるのです。

 教会も同じです。教会はあわれみ深い母です。教会は理解し、その子らが過去や現在、過ちを犯したとしても、つねに助け、励まそうと努めます。決して家の戸を閉めません。教会は裁かず、むしろ神のゆるしを与えます。神の愛を示します。神の愛は、罪の淵に落ちた子にも、再び道を歩むよう招きます。教会は、彼らの闇に歩み入り、希望を与えることを恐れません。教会は、わたしたちが霊魂と良心の暗闇の中にいるとき、わたしたちの闇に歩み入り、希望を与えることを恐れません。教会は母だからです。

 3 最後に申し上げたいことはこれです。母親はまた、自分の子どものために、数えきれないほど何度も願い、あらゆる戸をたたきます。それも愛をもって。わたしは、母親がとくに神のみ心の戸をたたくすべを知っていることに思いを致します。母親は自分の子どものために多くの祈りをささげます。とくに、からだの弱い子ども、助けを必要としている子ども、人生において危険な道や間違った道に踏み入った子どものために。数週間前、わたしはローマのサンタゴスティーノ教会でミサをささげました。そこにはアウグスティヌスの母モニカ(332 頃-387年)の聖遺物が収められています。聖なる母モニカは、息子のためにどれほど神に祈りをささげ、涙を流したことでしょうか。親愛なる母親の皆様。わたしは皆様のことを思います。皆様はご自分のお子様のために、どれほどうむことなく祈られることでしょうか。祈り続けてください。そして、皆様の子どもを神にゆだねてください。神のみ心は大いなるものなのですから。子どものための祈りで、神のみ心の戸をたたいてください。

 教会が行うのも同じことです。教会は、祈りによって、その子らのあらゆる状況を主のみ手にゆだねます。母である教会の祈りの力に信頼しようではありませんか。主が耳を傾けずにいることはありません。主はつねに、予期せぬしかたでわたしたちを驚かします。母である教会はそのことを知っています。

 以上が今日皆様にお話ししたかったことです。わたしたちは教会のうちにいつくしみ深い母の姿を見いだします。この母は、人生の歩むべき道をわたしたちに示します。つねに忍耐とあわれみに満ち、理解し、わたしたちを神のみ手にゆだねるすべを知っているのです。

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