教皇フランシスコの18回目の一般謁見演説 唯一の教会

9月25日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの18回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月29日から開始した「教会の神秘」に関する連続講話の7回目として「唯一の教会」につい […]

9月25日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの18回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月29日から開始した「教会の神秘」に関する連続講話の7回目として「唯一の教会」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 「信条」の中でわたしたちは「わたしは・・・・唯一の教会を信じます」と唱えます。すなわち、教会は唯一であり、この教会はそれ自体として一致であると告白します。しかし、世界のカトリック教会に目を向けるなら、教会がすべての大陸に散らばる約三千の教区から成ることが分かります。多くの言語と多くの文化を見いだします。ここにはさまざまな文化と多くの国の司教がおられます。スリランカの司教、南アフリカの司教、インドの司教などです。ラテンアメリカの司教の皆様もおられます。教会は全世界に散らばっています。にもかかわらず、何千のカトリック共同体は一致しています。なぜこのようなことが生じうるのでしょうか。

 1 わたしたちは『カトリック教会のカテキズム要約』の中にその簡潔な答えを見いだします。こう書かれています。世界に散らばるカトリック教会は「ただ一つの信仰、ただ一つの秘跡的生活、唯一の使徒継承、共有する一つの希望、そして同じ愛をもっています」(同161)。これはわたしたちを正しく導いてくれる、明快ですばらしい定義です。信仰と希望と愛と秘跡と奉仕職における一致――これが、教会という唯一の偉大な建物を支え、一つにまとめる支柱です。わたしたちは、どこへ行っても――たとえ地の果ての小さな小教区であっても、唯一の教会を見いだします。わたしたちは住まいと家庭のうちに、兄弟姉妹とともにいます。これは神の偉大なたまものです。教会はすべての人にとって唯一です。教会は、ヨーロッパ人のためのものでも、アフリカ人のためのものでも、アメリカ人のためのものでも、アジア人のためのものでも、オセアニアに住む人々のためのものでもありません。教会はどこにおいても同じです。それは家庭と同じです。家族は遠く離れ、世界中に散らばることもあります。しかし、どんなに遠く離れていても、家族全員を一つに結びつける深いきずなは固くとどまります。わたしはたとえばリオデジャネイロでのWYD(ワールドユースデー)の体験のことを考えます。コパカバーナ海岸に集まった数知れない若者たちの群れの中では、多くの言語を聞き、さまざまな顔を見、さまざまな文化と出会いました。にもかかわらず、そこには深い一致が存在しました。唯一の教会が存在しました。わたしたちは一致しており、またそのことを感じました。皆様、自分に問いかけてください。わたしはカトリック信者として、この一致を感じているでしょうか。わたしはカトリック信者として、この教会の一致を体験しているでしょうか。それとも、わたしは小さなグループや自分自身に閉じこもって、教会の一致に関心をもたずにいるでしょうか。わたしは自分のグループや国や友人のために教会を「私物化」する人々の一人でしょうか。利己主義と信仰の欠如のために「私物化」された教会を目にするのは、本当に悲しむべきことです。多くのキリスト信者が世界中で苦しんでいるのを知るとき、わたしは無関心でいられるでしょうか。それとも、家族の一人が苦しんでいるかのように感じるでしょうか。多くのキリスト信者が迫害され、信仰のためにいのちをもささげていることを考えるとき、それが心を打つでしょうか。それともそれはわたしと無関係なことでしょうか。イエス・キリストのためにいのちをささげる、家族の兄弟姉妹に、わたしは心を開いているでしょうか。わたしたちは互いに祈り合っているでしょうか。皆様に一つの質問をしたいと思います。声に出してではなく、心の中で答えてください。皆様のうち、どれだけの人が迫害されているキリスト信者のために祈っているでしょうか。おのおの心の中で答えてください。わたしは、信仰を告白し、守るために困難のうちにある兄弟姉妹のために祈っているでしょうか。自分の囲いの外に目を向け、自分が教会であり、唯一の神の家族であることを感じるのは大切です。

 2 もう一歩進んで、自らに問いかけたいと思います。この一致は傷つけられているでしょうか。わたしたちがこの一致を傷つけることがあるでしょうか。残念ながら、わたしたちは、歴史の流れの中で、また今も、自分たちがこの一致をつねに生きてはこなかったのを知っています。時として誤解や争いや緊張や分裂が起こり、それが一致を傷つけます。こうして教会は、望ましい姿をとることも、神の望みである愛を表すこともできなくなります。わたしたちは分裂を大きくしています。わたしたちは、キリスト信者、カトリック信者、正教会の信者、プロテスタントの信者の間に今なお分裂が存在するのを目にするとき、一致を完全に目に見えるものにすることがいかに大変かを感じます。神はわたしたちに一致を与えてくださいますが、わたしたちはしばしばこの一致を実現することに困難を覚えます。わたしたちは交わりを追求し、築かなければなりません。交わりを育て、誤解と分裂を乗り越えなければなりません。そのために、家庭から、現実の教会から、エキュメニカル対話を始めなければなりません。現代世界は一致を必要としています。現代は、すべての人が一致と和解と交わりを必要としている時代です。そして教会は交わりの家です。聖パウロはエフェソのキリスト者に向けていいます。「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心をもちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」(エフェソ4・1-3)。一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心をもち、愛をもって一致を保つ――これこそが道です。教会の歩むべき真の道です。わたしはそのことをあらためて感じます。虚栄と高慢に立ち向かって、高ぶることなく、柔和で、寛容の心をもち、愛をもって一致を保たなければなりません。パウロは続けていいます。からだは一つです。感謝の祭儀の中でわたしたちが受けるキリストのからだは一つだからです。霊は一つです。聖霊は教会を導き、たえず新たに造り変えるからです。希望は一つです。希望とは、永遠のいのちです。信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一です(4-6節参照)。わたしたちを一致させるものはなんと豊かなことでしょう。これこそが真の豊かさです。それはわたしたちを分裂させるのではなく、一致させます。これが教会の豊かさです。今日、おのおの自らに問わなければなりません。わたしは家庭、小教区、共同体の中で一致を深めているでしょうか。それともわたしは、うわさ好きな人間にすぎないでしょうか。わたしは分裂や問題を作り出していないでしょうか。皆様は、うわさが、教会、小教区、共同体にどれほど害悪をもたらすかをご存じありません。うわさは人を傷つけます。キリスト信者は、うわさをいう前に、ことばをつつしまなければなりません。ことばをつつしむこと――このことが善をもたらします。そうすれば、舌はふくれ上がって、しゃべることもうわさすることもできなくなるからです。わたしは、高ぶることなく、忍耐と犠牲をもって、交わりを傷つけた傷をいやしているでしょうか。

 3 終わりに、もっと深いところまで歩みを進めます。わたしが問いたいことはこれです。この教会の一致の導き手はだれでしょうか。聖霊です。わたしたちは皆、この聖霊を洗礼と堅信によって与えられました。わたしたちの一致は、一義的には、自分たちの合意や、教会内の民主主義、合意を得るための努力から生み出されるものではありません。この一致は、多様性における一致を造り出すかたに由来します。聖霊は一致だからです。聖霊はつねに教会の中に一致を造り出すからです。この一致は、多様な文化、言語、思想の調和です。一致の導き手は聖霊です。だから祈ることが大事なのです。祈りは、交わりと一致を求める人の努力の魂だからです。聖霊に祈ることが大事です。聖霊は教会のうちに一致をもたらすからです。

 主に祈りたいと思います。わたしたちが分裂の道具となることなく、ますます一致することができますように。フランチェスコの美しい祈りがいうとおり、憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを、分裂のあるところに一致をもたらすことができますように。

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