教皇フランシスコの20回目の一般謁見演説 普遍の教会

10月9日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの20回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月29日から開始した「教会の神秘」に関する連続講話の9回目として「普遍の教会」につい […]

10月9日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの20回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月29日から開始した「教会の神秘」に関する連続講話の9回目として「普遍の教会」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。ご覧のとおり、今日の悪天候の中で、皆様には勇気があります。これはすばらしいことです。

 「わたしは、唯一の、聖なる、普遍の・・・・教会を信じます」。今日は教会のこの特徴を考えてみたいと思います。まず、「普遍の(カトリック)」とはどういう意味でしょうか。このことばはギリシア語の「カトロン」に由来します。「カトロン」とは「全体に」、すなわち全体性を意味します。この全体性はどのような意味で教会に当てはまるのでしょうか。わたしたちはどのような意味で教会は普遍だというのでしょうか。三つの基本的な意味をお話しします。

 1 第一はこれです。教会が普遍なのは、教会が場所であり、家だからです。この家の中で、信仰の全体がのべ伝えられ、キリストがわたしたちにもたらした救いがすべての人に与えられます。教会はわたしたちを神のあわれみと出会わせます。神のあわれみはわたしたちを造り変えます。なぜなら、教会のうちにはイエス・キリストが現存するからです。そしてイエス・キリストは教会に、まことの信仰宣言と、完全な秘跡生活と、真正の叙階された奉仕職を与えるからです。わたしたちは皆、信じ、キリスト信者として生き、聖なるものとなり、あらゆる場所と時代を歩むために必要なものを、教会のうちに見いだします。

 たとえば、これは家庭生活と同じだといえます。わたしたちは皆、家庭の中で、成長し、大人になり、生活することを可能にするすべてのものを与えられます。わたしたちは独りで成長できません。独りで、孤独のうちに歩むことはできません。むしろわたしたちは、共同体の中で、家庭の中で、歩み、成長するのです。教会もそれと同じです。わたしたちは教会の中で神のことばを聞き、それが、主が自分たちに与えてくださったメッセージであると確信できます。わたしたちは教会の中で秘跡を通して主と出会うことができます。この秘跡という開かれた窓を通して、神の光が与えられます。この光の流れを通して、わたしたちは神のいのちそのものの水を飲むのです。わたしたちは教会の中で、神から来る交わりと愛を生きることを学びます。わたしたちは今日、おのおの自らに問いかけなければなりません。わたしたちは教会の中でどのように生きているでしょうか。わたしはいつ教会に行くでしょうか。教会に行くのは、サッカーの試合を見にスタジアムに行くのと同じでしょうか。映画を見に行くのと同じでしょうか。いいえ、違います。わたしはどのように教会に行っているでしょうか。わたしは、キリスト信者として成長するために教会が与えてくれるたまものを、どのように受け入れているでしょうか。共同体生活に参加しているでしょうか。それとも、教会に行きはしても、心を閉ざして、自分の問題だけに捕らわれているでしょうか。この第一の意味で教会は普遍です。教会はすべての人の家だからです。すべての人は教会の子です。すべての人がこの教会という家の中にいます。

 2 第二の意味はこれです。教会が普遍なのは、教会が世界的だからです。教会が世界のあらゆる地域に広がり、すべての人に福音を告げ知らせているからです。教会はエリートの集団でも、一部の人だけのものでもありません。教会は閉ざされたものではなく、すべての人、全人類へと遣わされています。唯一の教会は、教会の小さな部分の中にも現存します。すべての人はこういうことができます。普遍の教会がわたしの小教区にも現存します。この小教区も普遍教会の一部だからです。この小教区も、完全なキリストのたまものを保持しているからです。すなわち、信仰と秘跡と奉仕職です。そして小教区は、司教と教皇との交わりのうちにあり、分け隔てなくすべての人に開かれているからです。教会は鐘楼の影にすぎないものではありません。むしろ教会は、同じ信仰を告白し、同じ聖体に養われ、同じ牧者から奉仕を受ける、多くの民族と民に手を広げます。わたしたちは、すべての教会、すなわち、世界中の大小のカトリック共同体との交わりのうちにあると感じています。それはすばらしいことです。そしてわたしたちは、小さな共同体も大きな共同体も含めて、皆、宣教に派遣されていると感じています。わたしたちは皆、戸を開いて、福音のために出かけていかなければなりません。今、自らに問うてください。主と出会うことの喜び、また教会に属することの喜びを他の人々に伝えるために、わたしは何をしているでしょうか。信仰をのべ伝え、あかしすることは、一部の人の仕事ではありません。それはわたしにもあなたにも、つまりわたしたち皆にかかわります。

 3 第三に、そして最後にいいたいことはこれです。教会が普遍なのは、教会が「一致の家」だからです。この「一致の家」では、一致と多様性がともに結び合わされて、豊かなものとなります。交響楽をイメージすることができます。交響楽とは、和声であり、ハーモニーです。さまざまな楽器がともに音を響かせることです。それぞれの楽器は独特の響きと音色を保ちながら、共通の音に合わせます。次いで指揮者が登場します。そして演奏される交響楽においては、すべてが「ハーモニー」のうちにともに音を奏でます。しかしながら、それぞれの楽器の響きが消えることはありません。むしろ、それぞれの音色は最大限に生かされるのです。

 このすばらしいイメージは、教会がその中に多様性を有する大きな交響楽のようなものであることを示してくれます。わたしたちは皆、同じではなく、皆が同じであるべきでもありません。すべての人は多様で、異なります。すべての人には自分の特徴があります。それが教会のすばらしいところです。すべての人は、互いを豊かにするために神から与えられた、自分のたまものをもっています。構成員の間には多様性があります。しかしこの多様性は、いさかいをもたらすものでも、対立するものでもありません。それは聖霊の一致に基づく多様性です。聖霊こそがまことの「師」です。聖霊こそがハーモニーです。ここで自らに問わなければなりません。わたしたちは自分の共同体の中で一致しているでしょうか、それとも争い合っているでしょうか。小教区共同体や運動団体――そこでわたしは教会の一部です――の中で、わたしたちはうわさ話をしていないでしょうか。うわさ話をしているなら、そこにあるのは一致ではなく争いです。それは教会とはいえません。教会はすべての人の一致です。互いにうわさし合ったり、争い合ってはなりません。わたしたちは他の人々を受け入れているでしょうか。正当な多様性――すなわち、人は多様であること、それぞれ考え方が異なること、信仰を同じくしても、違った考え方がありうること――の存在を受け入れているでしょうか。それとも、すべてが画一的になることをめざしているでしょうか。画一性はいのちを失わせます。教会のいのちは多様性です。画一性をすべての人に押しつけようとするなら、聖霊のさまざまなたまものを殺してしまうことになります。多様性における一致とハーモニーを造り出すかたである、聖霊に祈り求めたいと思います。わたしたちがますます「普遍」となることができますように。すなわち、普遍の教会となることができますように。ご清聴ありがとうございます。

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