教皇フランシスコの21回目の一般謁見演説 使徒的教会

10月16日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの21回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月29日から開始した「教会の神秘」に関する連続講話の10回目として「使徒的教会」に […]

10月16日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの21回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月29日から開始した「教会の神秘」に関する連続講話の10回目として「使徒的教会」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 わたしたちは信条の中で「わたしは唯一の、聖なる、普遍の、使徒的教会を信じます」と唱えますが、「教会が使徒的である」ということばの意味をこれまで深く考えたことがない人がおられるかもしれません。ローマに来て、使徒ペトロとパウロの重要性を考えることもあるでしょう。二人は福音を伝え、あかしするために、この地でいのちをささげたからです。

 しかし、使徒的というのはそれだけではありません。教会が使徒的であると告白するというのは、教会と使徒たちとの間に根本的なきずながあることを強調することです。イエスはある日、この小さな十二人の集団をご自身のところに招き、彼らの名を呼びます。それは、彼らを自分のそばに置き、宣教を命じるためです(マルコ3・13-19参照)。実際、「使徒(アポストロス)」とはギリシア語で、「遣わされた者」、「使者」を意味することばです。使徒とは、遣わされた者です。使徒は何かをするために派遣されます。そして使徒は、ご自身のわざを継続させるためにイエスによって選ばれ、招かれ、派遣されます。イエスのわざとは、祈ること――これが使徒の第一の仕事です――と、第二に、福音をのべ伝えることです。このことは重要です。なぜなら、わたしたちは使徒について考えるとき、彼らが福音をのべ伝え、多くのわざを行うためだけに遣わされたと考えるおそれがあるからです。しかし、教会の初期の時代に一つの問題が生じました。使徒たちはあまりにも多くのことをしなければならなかったからです。そこで彼らは助祭を立てました。それは、祈り、神のことばをのべ伝えるための時間をもっと多く使徒たちに与えるためです。使徒の継承者である司教――司教には教皇も含まれます。教皇も司教だからです――について考えるとき、わたしたちは、この使徒の継承者がまず祈り、それから福音をのべ伝えているかどうか、問わなければなりません。これが使徒のあり方であり、そのために教会は使徒的なのだからです。もし今説明したようなしかたで使徒となりたいのならば、わたしたちは皆、自らに問わなければなりません。わたしは世の救いのために祈っているでしょうか。福音をのべ伝えているでしょうか。これこそが使徒的教会です。これこそが、わたしたちと使徒たちの間にある、根本的なきずなです。

 このことから出発して、教会について用いられる「使徒的」という形容詞の三つの意味を簡単に説明したいと思います。

 1 教会が使徒的なのは、教会が使徒の宣教と祈りを土台とするからです。キリストご自身が彼らに与えた権威を土台とするからです。聖パウロはエフェソのキリスト者にこう書き送ります。「あなたがたは・・・・聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエスご自身です」(エフェソ2・19-20)。そこでパウロはキリスト者を、教会という建物を構成する生きた石にたとえます。この建物は使徒たちといういわば支柱を土台としています。そして建物全体を支えるかなめ石はイエスご自身です。イエスがいなければ教会は存在することができません。イエスは教会の基礎であり、基盤そのものです。使徒たちはイエスとともに生き、イエスのことばを聞き、イエスの生涯にあずかりました。何よりも彼らはイエスの死と復活の証人です。わたしたちの信仰も、キリストが望まれた教会も、ある思想や哲学を基盤とするものではありません。基盤はキリストご自身なのです。教会は植物のようなものです。それは何世紀もの間に大きく成長し、実りをもたらしました。しかし教会の根は、キリストと、キリストについての根本的な経験に植えられています。イエスによって選ばれ派遣された使徒たちが有したこの経験は、わたしたちにまで伝えられました。あの小さな植物から現代にまで――こうして教会は全世界に存在するようになりました。

 2 しかし、わたしたちは自らにこう問わなければなりません。どのようにしてわたしたちは使徒たちのあかしと結びつけられうるのでしょうか。使徒たちがイエスとともに体験したこと、イエスから聞いたことが、どのようにしてわたしたちに伝わりうるのでしょうか。ここに「使徒的」ということばの第二の意味があります。『カトリック教会のカテキズム』はこう述べます。教会が使徒的なのは、教会が「自分たちのうちに住まわれる霊に助けられて、使徒の教え、ゆだねられた善、使徒たちから聞いた健全なことばを守り、伝える」(同857)からです。教会は何世紀もの間、貴重な宝を守ってきました。すなわち、聖書と教えと秘跡と牧者の奉仕職です。だからわたしたちはキリストに忠実にとどまり、キリストのいのちそのものにあずかることができるのです。教会は、歴史の中を流れ、大きくなり、大地を潤す川のようなものです。しかし、この川の水はつねに源泉から流れ出ます。この源泉はキリストご自身です。キリストは復活した主であり、生きておられるかたです。キリストのことばは過ぎ去りません。キリストは過ぎ去ることがないからです。キリストは生きておられるからです。キリストは今日も、ここで、わたしたちの間におられるからです。キリストはわたしたちに耳を傾けてくださいます。わたしたちはキリストに語りかけ、キリストはわたしたちに耳を傾けられます。キリストはわたしたちの心の中におられます。イエスは今日もわたしたちとともにいてくださいます。イエス・キリストがわたしたちの間に現存すること――これが教会のすばらしさです。わたしたちは、キリストがわたしたちに与えてくださった教会というたまものがどれほど大切であるか、考えたことがあるでしょうか。わたしたちはこの教会で、キリストと出会えるのです。教会が長い歴史の歩みの中で――困難と問題と弱さとわたしたちの罪にもかかわらず――キリストの真実のメッセージをわたしたちに伝えてきたのがどういうことか、考えたことがあるでしょうか。わたしたちが信じていることが、本当にキリストがわたしたちに伝えてくださったことだという確信を教会が与えてくれていることを、考えたことがあるでしょうか。

 3 第三に考えてみたいことはこれです。教会が使徒的なのは、教会が全世界に福音を伝えるよう遣わされているからです。教会は歴史の歩みの中で、イエスが使徒たちにゆだねた使命を果たし続けます。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(マタイ28・19-20)。これが、イエスがわたしたちに行うように命じたことです。わたしは宣教活動のこの側面を強調したいと思います。キリストはすべての人に、「行って」、他の人と出会うように招いているからです。キリストは、わたしたちを派遣し、福音の喜びを伝えるために出かけるよう求めるからです。あらためて自らに問いかけなければなりません。わたしたちは、ことばだけでなく、自分のキリスト教的生活とあかしによって宣教者となっているでしょうか。それとも、自分たちの心、自分たちの教会に閉じこもったキリスト信者になっていないでしょうか。香部屋のキリスト信者になっていないでしょうか。ことばだけで、異教徒のように生きているキリスト信者になっていないでしょうか。わたしたちは自らにこう問いかけなければなりません。それはとがめだてではありません。わたし自身も、同じことを自らに問いかけます。わたしはどのようなキリスト信者でしょうか。本物のあかしをしているでしょうか。

 教会は、キリストの真の証人である使徒たちの教えに根ざしながら、未来に目を向けます。宣教者となり、祈りと告知とあかしによってイエスのみ名を伝えるように派遣されている――イエスによって派遣されている――ことをしっかりと自覚します。自らと過去に閉じこもった教会、習慣や行動に関する些細な規則だけに目を向ける教会は、自らの本来の姿に背く教会です。そこで、今日、使徒的教会であることのすばらしさと責務を余すところなく再発見したいと思います。このことを心にとめてください。わたしたちが使徒的教会であるのは、わたしたちが祈るからです――これが第一の務めです――。そして、自らの生活とことばによって福音をのべ伝えるからです。

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