教皇フランシスコの2013年10月20日の「お告げの祈り」のことば 気を落とさずに絶えず祈りなさい

教皇フランシスコは、年間第29主日の10月20日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語 […]

教皇フランシスコは、年間第29主日の10月20日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日は『世界宣教の日』です。教会の宣教とはいかなるものでしょうか。それは、イエスが世にともした信仰の炎を世に広めることです。信仰とは、父であり、愛であり、あわれみである神への信仰です。キリスト教の宣教の方法は、改宗の強制ではなく、魂を温める炎を分かち合うことです。祈りと具体的な支援によって、宣教事業、とくに福音を広めることへのローマ司教の気遣いを支えてくださるすべての人に感謝します。今日の『世界宣教の日』にあたり、静かに生涯をささげるすべての男女宣教者のかたがたに寄り添います。たとえば、長年にわたりナイジェリアで働いたイタリア人女性のアフラ・マルティネッリです。彼女は先日(9月26日)、強盗に殺害されました(亨年78歳)。キリスト教徒もムスリムも含めて、すべての人が彼女の死を悼みました。彼女は皆に愛されました。彼女はその生涯により、すなわち彼女が成し遂げた教育センターの活動により、福音をのべ伝えました。こうして彼女は信仰の炎を広め、よい戦いを立派に戦い抜きました。このわたしたちの姉妹のことを思い、皆でたたえようではありませんか」。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 今日の福音の中で、イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことについてたとえを話されます。たとえ話の主人公は、不正な裁判官に嘆願することを迫られて、自分に正義を行うよう求める、一人のやもめです。イエスは終わりにいいます。このやもめがあのような裁判官を説得できたのだから、わたしたちが熱心に祈るなら、神がわたしたちの祈りを聞いてくださらないことがあろうか。イエスのことばはきわめて力強いものです。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」(ルカ18・7)。
 神に「昼も昼も叫び求める」こと。この祈りについてのイメージはわたしたちの心を打ちます。しかし、わたしたちは自問します。なぜ神はこのようなことを求めるのでしょうか。神はすでにわたしたちに必要なことをご存じではないでしょうか。神に「熱心に祈る」とはどういうことでしょうか。
 これは正当な問いです。この問いは、信仰のきわめて重要な側面を深く理解させてくれるからです。神が熱心に祈るようわたしたちを招くのは、わたしたちが必要とするものを知らないからでも、わたしたちの祈りを聞いていないからでもありません。むしろその反対に、神は絶えず愛をもって耳を傾けておられ、またわたしたち皆を知っておられます。わたしたちの日々の歩みにおいて、とくに困難やわたしたちの内と外にある悪との戦いの中で、主は遠く離れているのではなく、わたしたちのそばにおられます。わたしたちは、そばにいてくださる主とともに戦います。そしてわたしたちの武器は祈りです。祈りは、神がそばにいてくださり、あわれみを示し、さらに助けてくださることを感じさせてくれるからです。しかし、悪との戦いは辛く長いものです。それは忍耐と堅忍を必要とします。自分の民に勝利をもたらすために手を高く上げ続けなければならなかったモーセと同じです(出エジプト17・8-13参照)。まことに、日々、戦わなければならない戦いが存在します。しかし、神はわたしたちの味方です。神への信仰はわたしたちの力です。そして祈りはこの信仰を表すものです。だからイエスはわたしたちに勝利を約束されますが、終わりにこう問いかけます。「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18・8)。信仰と祈りが消え、暗闇の中を歩くなら、わたしたちは人生の道を迷ってしまうのです。
 それゆえ福音書のやもめから、気を落とさずに絶えず祈ることを学ぼうではありませんか。このやもめは立派な女性です。彼女は自分の子どもたちのために戦うことができました。わたしは、自分の家族のために戦い、祈り、決して疲れることのない多くの女性たちに思いを致します。わたしたちは皆、今日、自分の行いをもって、信仰と勇気のあかしと、祈りの模範を示す、この女性たちを心に留めなければなりません。絶えず祈ってください。しかし、それはことばの力によって主を説得するためではありません。主は、わたしたちが必要とするものをわたしたちよりも知っておられるからです。むしろ、粘り強い祈りは、神への信仰を表します。神は、善をもって悪に勝つために、日々、あらゆるときにご自分とともに戦うよう、わたしたちを招かれるのです。

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