教皇フランシスコの22回目の一般謁見演説 教会の似姿であり模範であるマリア

10月23日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの22回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月29日から開始した「教会の神秘」に関する連続講話の11回目として「教会の似姿であ […]

10月23日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの22回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月29日から開始した「教会の神秘」に関する連続講話の11回目として「教会の似姿であり模範であるマリア」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 教会についての講話を続けます。今日は教会の似姿であり模範であるマリアに目を向けたいと思います。その際、第二バチカン公会議のことばをあらためて取り上げます。公会議の『教会憲章』はいいます。「すでに聖アンブロジオが教えたように、神の母は、信仰と愛、またキリストとの完全な一致の領域において、教会の典型である」(同63)。

 1 「信仰の模範としてのマリア」という第一の点から始めます。マリアはどのような意味で教会に信仰の模範を示すのでしょうか。おとめマリアがどのようなかただったかを考えてみたいと思います。彼女は、心から自分の民のあがないを待ち望んだ、ユダヤ人の少女です。しかし、このイスラエルのうら若い娘の心の中には秘密がありました。この秘密を彼女自身もまだ知りませんでした。神の愛の計画により、彼女はあがない主の母となるよう定められていたのです。お告げのとき、神の使いは彼女を「恵まれたかた」と呼び、この計画を彼女に示しました。マリアは「はい」とこたえます。そしてこのときからマリアの信仰は新しい光を受けます。彼女は神の子であるイエスに心を集中させます。イエスはマリアから肉を受け、それによって救いの歴史全体に関する約束が実現されます。マリアの信仰はイスラエルの信仰の完成です。マリアのうちに、あがないを待ち望んでいたイスラエルの民の歩んできた道の全体が集約されます。その意味でマリアは教会の信仰の模範です。教会は、神の限りない愛の受肉である、キリストを中心とするからです。

 マリアはこの信仰をどのように生きたでしょうか。彼女はこの信仰を、あらゆる母親がもつ、日々の、素朴な、数えきれない仕事と心配事のうちに生きました。すなわち、食事の支度、衣服、家の管理などです。このような聖母の普通の生活こそが、彼女と神、また彼女と御子との間の特別な関係と深い対話が展開される場だったのです。マリアの「はい」はすでに初めから完全なものでしたが、それは十字架の時に至るまで成長しました。マリアの母としての気遣いは、十字架において広がり、わたしたち皆とその生活を抱きとめます。それは、わたしたちを御子へと導くためです。マリアは、御子の最初の完全な弟子として、人となった神の神秘につねに浸されて生きました。そして、聖霊の光を受けながら、心の中ですべてのことがらを黙想しました。神のみ心をすべて理解し、行うためです。

 自らに問いかけたいと思います。わたしたちは、自分たちの母であるマリアの信仰に照らしていただいているでしょうか。それとも、マリアを、わたしたちとはかけ離れたかた、まったく違うかたと考えているでしょうか。神はつねにわたしたちにとってよいことだけを望まれます。困難や試練や暗闇のときに、この神への信頼の模範としてマリアに目を向けているでしょうか。このことを考えることが、このような信仰をもっていたからこそマリアが教会の模範であり、かたどりであることを再発見する助けとなるかもしれません。

 2 第二の点は、愛の模範としてのマリアです。どのようなしかたでマリアは教会にとって愛の生きた模範なのでしょうか。マリアが親戚のエリサベトを進んで助けに行ったことを考えてみたいと思います。エリサベトを訪ねた際、おとめマリアは助けとなる物をもたらしただけではありません。もちろん、それももたらしはしましたが、彼女は同時に、すでに彼女の胎内で生きていたイエスをもたらしたのです。エリサベトの家にイエスをもたらすことは、喜びをもたらすことを、それも完全な喜びをもたらすことを意味しました。エリサベトとザカリアは、年とった自分たちには不可能と思われたのに妊娠したことを喜びました。しかし、おとめマリアは彼らに完全な喜びをもたらしました。この喜びはイエスと聖霊に由来するものであり、また、無償の愛を与え、分かち合い、助け合い、理解し合うことによって表されます。

 聖母は、わたしたちにも、わたしたちすべてにも、イエスという偉大なたまものをもたらそうと望んでいます。聖母は、イエスとともに、その愛と平和と喜びをわたしたちにもたらします。教会もマリアと同じです。教会は、商店でも、人道支援組織でもありません。教会はNGOではありません。むしろ教会は、すべての人にキリストとその福音をもたらすよう派遣されています。教会は――それが小さかろうと大きかろうと、強かろうと弱かろうと――自らをもたらすのではありません。教会はイエスをもたらします。そして、エリサベトを訪ねたマリアと同じような者とならなければなりません。マリアは何をもたらしたのでしょうか。イエスです。教会はイエスをもたらします。イエスをもたらすこと――これが教会の中心です。仮に教会がイエスをもたらさないとすれば、そのとき教会は死んだ教会となります。教会はイエスの愛のわざを、イエスの愛をもたらさなければならないのです。

 わたしたちはマリアとイエスについて語りました。わたしたちはどうでしょうか。わたしたち教会はどうでしょうか。わたしたちはどのような愛を他の人々にもたらしているでしょうか。分かち合い、ゆるし、ともに歩むイエスの愛をもたらしているでしょうか。それとも、水で薄めた愛をもたらしているでしょうか。水と変わらないほどに薄めたぶどう酒のように。強い愛をもたらしているでしょうか。それとも弱々しい愛をもたらしているでしょうか。すなわち、好意に基づき、見返りを求め、利害のからんだ愛です。もう一つの問いがあります。イエスは、利害のからんだ愛を喜ぶでしょうか。いいえ、決して喜びません。イエスの愛と同じように、愛は無償でなければならないからです。わたしたちの小教区や共同体の関係はどうなっているでしょうか。兄弟姉妹としてかかわり合っているでしょうか。それとも、互いを裁き、他の人の悪口をいい、自分の「庭」のことだけを気にかけているでしょうか。互いに気を配っているでしょうか。これが愛に関する問いかけです。

 3 最後に、キリストとの一致の模範としてのマリアという、第三の点を簡単にお話しします。聖なるおとめの生活は、彼女の属する民の女性の生活でした。マリアは祈り、働き、会堂に赴きました。・・・・しかし彼女は、あらゆる行動をつねにイエスとの完全な一致のうちに果たしました。この一致はカルワリオ(されこうべ)で頂点に達します。マリアはカルワリオにおいて、心の殉教と、人類の救いのため御父に生涯をささげることにより、御子と一致します。聖母は御子の苦しみを自分のものとし、御子とともに、従順に、御父のみ心を受け入れました。この従順が実りをもたらします。すなわち、悪と死に対するまことの勝利をもたらすのです。

 マリアはわたしたちに、イエスとつねに一致するという、すばらしいことを教えてくださいます。わたしたちは自らにこう問いかけることができます。わたしたちは、何かがうまくいかないときや、困っているときだけ、イエスを思い起こしているでしょうか。それとも、たとえ十字架の道を従わなければならない場合にも、イエスと変わることのない関係を、深い友愛をもち続けているでしょうか。

 主に祈り願いたいと思います。あなたの恵みと力をお与えください。わたしたちの生活とあらゆる教会共同体の生活に、教会の母であるマリアの模範が反映されますように。アーメン。

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