教皇フランシスコの23回目の一般謁見演説 聖徒の交わり

10月30日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの23回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月29日から開始した「教会の神秘」に関する連続講話の12回目として「聖徒の交わり」 […]

10月30日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの23回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月29日から開始した「教会の神秘」に関する連続講話の12回目として「聖徒の交わり」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇はイラク情勢に関してイタリア語で次の呼びかけを行いました。
「謁見の終わりに、教皇庁諸宗教対話評議会議長のトーラン枢機卿に同伴されて来られた、イラクの所轄権限者の代表者と、イラクの豊かさを示すさまざまな宗教団体の代表者の皆様にごあいさつ申し上げます。残念ながら、日々、悲惨な暴力事件の被害に遭っているこの愛する国イラクのために祈ってくださるよう、皆様にお願いします。イラクが和解と平和と一致と安定への道を見いだすことができますように」。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 今日は、わたしたちの信仰のきわめてすばらしい要素の一つである、「聖徒の交わり」についてお話ししたいと思います。『カトリック教会のカテキズム』は次のことを思い起こさせてくれます。「聖徒の交わり」ということばがいおうとしているのは、聖なるものの分かち合いと、聖なる人々の交わりという、二つのことです(同948)。わたしは後者の意味について考えてみたいと思います。これはわたしたちの信仰においてもっとも慰めとなることがらです。なぜならそれは、わたしたちが独りきりではなく、かえって、キリストに属するすべての人の間にはいのちの交わりが存在することを思い起こさせてくれるからです。この交わりは信仰から生まれます。実際、「聖なる人々」とは、主イエスを信じ、洗礼によって教会の中でイエスに合体させられた人々を意味します。そのため、初期のキリスト者は「聖なる者たち」(使徒言行録9・13、32、41、ローマ8・27、一コリント6・1参照)と呼ばれたのです。

 1 ヨハネによる福音書はこうあかしします。受難の前に、イエスは次のことばをもって弟子たちの交わりのために御父に祈りました。「父よ、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(ヨハネ17・21)。教会は、そのもっとも深い真理において、神との交わりであり、神との親しい関係であり、聖霊におけるキリストと御父との愛の交わりです。この交わりは兄弟の交わりへと拡大されます。このイエスと御父の関係は、わたしたちキリスト信者のきずなの「母胎」です。この「母胎」、すなわち燃える愛のかまどに深く結ばれているなら、わたしたちは真の意味で互いに一つの心、一つの霊となることができます。なぜなら、神の愛はわたしたちの利己主義と偏見と内的・外的分裂を焼き尽くすからです。神の愛はわたしたちの罪をも焼き尽くします。

 2 愛の泉である神にこのように根ざしているなら、それが影響を及ぼし合うことも示されます。兄弟から神へ――兄弟の交わりの経験は、わたしを神との交わりへと導きます。互いの一致は、わたしたちを神との一致へと導きます。わたしたちの父である神とのきずなへと導きます。これが、わたしが強調したい、聖徒の交わりの第二の点です。わたしたちの信仰は、とくに困難なときに、他の人の支えを必要とします。もしわたしたちが一致していれば、信仰は強力になります。信仰の驚くべき冒険において互いに支え合うのは、なんとすばらしいことでしょうか。このことを申し上げるのは、個人のうちに閉じこもる傾向が、宗教の領域にも影響を及ぼしてきているからです。そのため、キリスト教的経験を共有する人に霊的な助けを求めるのが困難な場合が少なくありません。不安を感じ、道に迷い、信仰の歩みの中で疑いさえも覚えることのない人が、わたしたち皆の中にいるでしょうか。わたしを含めわたしたち皆に、こうした体験があります。それはわたしたちの信仰の歩み、また人生の一部です。これらすべてのことに驚いてはなりません。わたしたちは、弱さと限界をもつ人間だからです。わたしたちは皆、弱く、限界をもつからです。しかし、こうした困難なときに、子としての祈りによって、神の助けにより頼まなければなりません。同時に、他の人に心を開いて、助けを求め、手を差し伸べてもらう勇気と謙遜を見いだすことも大切です。わたしたちは何度、このようにしてきたことでしょうか。そして、そこから問題から脱出して、もう一度神を見いだすことができたことでしょうか。わたしたちはこの交わり――「交わり(comunione)」とは「共に(comune)-一致すること(unione)」です――の中で、大きな家族です。この家族において、すべての成員は互いに助け合い、支え合います。

 3 もう一つの点はこれです。聖徒の交わりは地上の生活を超えます。それは死を超えて、永遠に続きます。わたしたちの一致はこの世を超え、来世においても継続します。この霊的な一致は洗礼によって生まれますが、死によって断ち切られることがありません。むしろそれは、復活したキリストにより、永遠のいのちにおいて完成するよう定められています。この世をまだ旅する人々――すなわち、わたしたち――と、死の門を超えて永遠のいのちに入った人々の間には、深く切り離しえないきずなが存在します。地上の洗礼を受けたすべての人と、煉獄の霊魂と、すでに楽園にいるすべての聖なる人々は、唯一の大きな家族を構成します。この地上と天上の交わりは、とくに執り成しの祈りによって実現されます。

 親愛なる友人の皆様。わたしたちにはこのようなすばらしい交わりがあります。このわたしたち皆にとっての現実は、わたしたちを兄弟とし、人生の歩みの中でわたしたちに同伴し、天上で再びわたしたちと出会います。信頼と喜びをもってこの道を歩もうではありませんか。キリスト信者は喜んでいなければなりません。自分とともに歩む多くの洗礼を受けた兄弟がいるという喜びをもって。天上に向かう歩みをともにする兄弟姉妹の助けに支えられながら。そして天上でわたしたちのためにイエスに祈る兄弟姉妹に助けられながら。喜びをもってこの道を進んでいこうではありませんか。

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