教皇フランシスコの2013年11月3日の「お告げの祈り」のことば ザアカイの回心

教皇フランシスコは、年間第31主日の11月3日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語) […]

教皇フランシスコは、年間第31主日の11月3日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。今日は。

 今日の主日の福音の箇所は、エルサレムに上る途中、エリコの町に入るイエスの姿を示します。これは、イエスの生涯全体の意味を集約する、旅の最後の段階です。イエスの生涯は、イスラエルの家の見失った羊を捜して救うためにささげられたものだからです。しかし、この歩みが目的地に近づけば近づくほど、イエスの周囲にますます敵意の輪が近づいてきます。
 にもかかわらず、エリコでは、ルカが語るもっとも喜ばしい出来事の一つが起こります。ザアカイの回心です。ザアカイという人は見失った羊であり、人々からさげすまれ、「仲間はずれ」にされていました。なぜなら、彼は徴税人であり、それどころか、町の徴税人の頭で、人々が憎む占領者のローマ人の友人であり、盗み、人々を食い物にしていたからです。
 おそらくその悪い評判のゆえに、また背が低かったために、イエスに近づくことができなかったザアカイは、通り過ぎる師であるかたを見ようとして、木に登ります。この外的な行為は、少々滑稽なものだとはいえ、この人の内的な行為を表します。彼はイエスに触れるために、群衆を乗り越えようとしたからです。ザアカイ自身にはこの動作の深い意味が分かりません。彼は自分がなぜこのようなことをするのか知らずに、そうするのです。彼はまた、自分と主を隔てる距離を乗り越えることをあえて望みません。彼は主が通り過ぎるのを見ることができれば、それだけで満足でした。しかしイエスは、この木のところに来ると、ザアカイの名を呼びます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19・5)。すべての人から拒絶され、イエスから遠ざけられていたこの背の低い男は、いわば名をもたずに見失われていました。しかしイエスは彼を呼びます。そしてこの「ザアカイ」という名は、当時のことばで深い意味をもっていました。実際、「ザアカイ」とは「神は心にとめてくださる」を意味したのです。
 イエスがザアカイの家に入ると、エリコの住民全体から非難が起こりました(当時も人々はたくさんのうわさ話をしたのです)。なぜこのようなことをするのか。町には立派な人がたくさんいるのに、なぜこの徴税人の家に行って泊まるのか。それは、彼が見失われた者だったからです。イエスはいいます。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」(ルカ19・9)。この日からザアカイの家に喜びと平和と救いが訪れます。すなわち、イエスが訪れるのです。
 いかなる職業も社会的身分も、いかなる罪も犯罪も、神の記憶とみ心から、その子らを一人として消し去ることはできません。「神は」永遠に「心にとめます」。神はご自分が造られた者をだれ一人として忘れません。神は父です。神は、子らの心のうちに家に帰りたいという望みがよみがえるのを見ることを、目を覚まして、愛をもって、つねに待ち望んでおられます。そして、この望みを認めると――たとえそれがかすかで、多くの場合に意識されないものであっても――、神はすぐにその人に近づき、ゆるしをもって、回心と立ち帰りの道をたやすいものにしてくださいます。今日の、木の上にいるザアカイに目を向けたいと思います。彼の行動はある意味で滑稽ですが、それは救いの行為です。皆様に申し上げます。良心に負い目があるとき、恥ずべき多くのことを行ったとき、恐れずに、すこし立ち止まってください。あなたを待っているかたがいることを考えてみてください。そのかたはあなたをつねに心にとめてくださるからです。このかたこそが、あなたの御父です。あなたを待っている神です。ザアカイと同じように、ゆるしへの望みの木に登ってください。皆様に約束します。皆様が失望することはありません。イエスはあわれみ深いかたであり、うむことなくゆるしてくださいます。このことをよく心にとめてください。イエスはこのようなかたです。
 兄弟姉妹の皆様。わたしたちもイエスに名を呼んでいただこうではありませんか。心の奥底で、イエスのみ声を聞こうではありませんか。イエスはいわれます。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。あなたの心に、あなたの生活の中に泊まりたいと。そして喜びをもってイエスを受け入れようではありませんか。イエスはわたしたちを造り変え、わたしたちの石の心を肉の心に変えることができます。わたしたちを利己主義から解放し、わたしたちの人生を、与える愛にしてくださいます。イエスにはこのようなことができます。イエスにいやしていただこうではありませんか。

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