教皇フランシスコの24回目の一般謁見演説 聖徒の交わり(二)

11月6日(水)午前10時から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの24回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月29日から開始した「教会の神秘」に関する連続講話の13回目として、前週に続いてあらためて […]

11月6日(水)午前10時から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの24回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月29日から開始した「教会の神秘」に関する連続講話の13回目として、前週に続いてあらためて「聖徒の交わり」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

講話の終わりに教皇が言及したノエミ・シャレッタさんは、ウォルファルト・クーゲルベルク・ウェランダー病(脊髄性筋委縮症タイプ3)をわずらっています。教皇の招きで、この日の朝、イタリア中部アブルッツォ州のキエーティから、両親のアンドレアとタヘレ・シャレッタ夫妻とともにバチカンを訪れました。
――― 

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 先週の水曜日に、聖なる人々(すなわちわたしたち信じる者)の交わりという意味での、聖徒の交わりについてお話ししました。今日は同じことがらのもう一つの側面についてさらに考えてみたいと思います。聖徒の交わりには二つの側面があったことを思い起こしてください。一つの側面は、わたしたちの間の交わりと一致です。もう一つの側面は、聖なるもの、すなわち霊的善の分かち合いです。二つの側面は互いに密接に関連しています。実際、キリスト信者の交わりは、霊的善にあずかることを通して深まります。わたしたちはとくに秘跡とカリスマと愛のことを考えています(『カトリック教会のカテキズム』949-953参照)。わたしたちは秘跡と、聖霊から与えられるカリスマと、愛によって、一致と交わりを深めます。

 第一は秘跡の分かち合いです。秘跡は、わたしたちの力強く深い交わりを表し、実現します。なぜなら、わたしたちは秘跡によって救い主であるキリストと出会い、キリストを通して信仰におけるわたしたちの兄弟と出会うからです。秘跡は単なる目に見える儀式ではなく、むしろキリストの力です。秘跡に現存するのは、イエス・キリストです。わたしたちが感謝の祭儀を祝うとき、生けるイエスがわたしたちを集め、共同体とし、御父を礼拝させます。実際、わたしたちは皆、洗礼と堅信と聖体を通してキリストと合体し、信者の共同体全体と一致します。それゆえ、秘跡を「作る」のが教会であれば、教会を「作る」のも秘跡です。秘跡は、新しい子らを生み出し、彼らを神の聖なる民に加え、しっかりとその構成員とすることによって、教会を築きます。

 秘跡を通してわたしたちに救いをもたらす、あらゆるキリストとの出会いは、「行って」、他の人々に救いを伝えるようにわたしたちを招きます。わたしたちはこの救いを見、触れ、それと出会い、受け入れることができました。また救いは真に信頼の置けるものです。なぜなら、それは愛だからです。このようにして秘跡は、宣教者となるようわたしたちを駆り立てます。そして、非常に敵対的なところも含めた、すべてのところに福音をもたらそうとする努力は、熱心な秘跡的生活がもたらすまことの成果です。秘跡的生活は、すべての人に救いを与えようと望む、神の救いの働きにあずかることだからです。秘跡の恵みは、強く喜びに満ちた信仰をわたしたちのうちで養います。この信仰は、神の「奇しきわざ」に驚かされ、世の偶像にあらがうことができます。だから、聖体を拝領することが大切です。子どもに早く洗礼を授け、堅信を受けさせることが大切です。なぜなら、秘跡はわたしたちの間にイエス・キリストが現存することだからです。この現存がわたしたちを助けるからです。自分が罪人であると感じるとき、ゆるしの秘跡に近づくことは大切です。ある人はこういうかもしれません。「しかしわたしは、司祭が自分を叱りつけるのが怖いのです」。いいえ、司祭はあなたを叱りつけるのではありません。ゆるしの秘跡の中であなたが出会うのはだれだかご存じですか。あなたはイエスと出会うのです。イエスがあなたをゆるしてくださるのです。イエスはまた、ゆるしの秘跡の中であなたを待っておられます。これが、教会全体を成長させる秘跡です。

 聖なるものの分かち合いの第二の側面は、カリスマの分かち合いです。聖霊は信じる者に多くの霊的たまものと恵みを授けます。この聖霊のたまもののいわば「想像力に富んだ」豊かさは、教会を築くことをめざしています。カリスマ――これはややむずかしいことばです――は、聖霊がわたしたちに与える贈り物であり、力と可能性です。贈り物が与えられるのは、それを隠すためではなく、他の人に分け与えるためです。贈り物が与えられるのは、それを受け取るわたしたちのためではなく、神の民の善益のためです。これに対して、こうした贈り物の一つであるカリスマを自己主張のために用いるなら、それが本物のカリスマであるのか、あるいは、カリスマを忠実に生きているかを疑わなければなりません。カリスマは、他の多くの人に対してよいことを行うためにある人々に与えられる、特別な恵みです。それは、特定の人々の良心と経験の中で生まれる、態度、霊感、内的な促しです。こうした人々は、この恵みを共同体に奉仕するために用いるよう招かれます。とくにこれらの霊的たまものは、教会の聖性と使命のために役立ちます。わたしたちは皆、自分と他の人のうちにあるこれらのたまものを尊重し、教会が存在し、実り豊かな活動を行うための有益な刺激としてそれらを受け入れるよう招かれています。聖パウロは勧告していいます。「“霊”の火を消してはいけません」(一テサロニケ5・19)。この贈り物、力を与えてくださる、“霊”の火を消さないようにしようではありませんか。このすばらしい多くの徳こそが、教会を成長させるからです。

 この聖霊のたまものに対してわたしたちはどのような態度をとっているでしょうか。わたしたちは、神の霊が、望む人にこのたまものを自由に与えることを自覚しているでしょうか。このたまものを霊的な助けとみなしているでしょうか。主がこのたまものを通してわたしたちの信仰を支え、世におけるわたしたちの宣教を強めてくださると考えているでしょうか。

 聖なるものの分かち合いの第三の側面は、愛の分かち合いです。愛のわざと愛を造り出す、わたしたちの一致です。異教徒たちは、初期のキリスト者を見ていいました。「見ろ、彼らは互いに愛し合っている。互いのためになることを望んでいる。互いに憎み合わない。互いに悪口をいわない」。これが愛です。聖霊がわたしたちの心に注ぐ、神の愛です。カリスマはキリスト教共同体の生活において重要ですが、それはつねに愛のわざと愛を成長させることをめざしています。聖パウロはこの愛をすべてのカリスマの上に位置づけます(一コリント13・1-13参照)。実際、愛がなければ、特別なたまものもむなしいものです。ある人が、人々をいやすことができたり、このような特質をもっていたり、このような徳をもっていたとしても、その人の心に愛はあるでしょうか。もしあるなら、よいことです。しかし、もし愛がなければ、教会にとって役に立ちません。愛がなければ、あらゆるたまものとカリスマは教会の役に立ちません。なぜなら、愛のないところには、むなしさだけがあり、むなしさはやがて利己主義で満たされるからです。わたしは自問します。わたしたち皆が利己主義的だとしたら、交わりと平和のうちに生きることができるでしょうか。いいえ、できません。だから、わたしたちを一致させる愛が必要なのです。わたしたちが行うもっともささやかな愛のわざが、すべての人によい効果を及ぼします。それゆえ、教会の一致と愛の交わりを生きるとは、自分の利益を追求せず、むしろ、兄弟と苦しみと喜びを共有し(一コリント12・26参照)、もっとも無力な人、貧しい人の重荷をすすんで担うことです。このような兄弟愛にもとづく連帯は、単なることばの綾ではなく、キリスト信者の交わりの不可欠な部分です。もしこの連帯を生きるなら、わたしたちは世において神の愛のしるし、「秘跡」となります。わたしたちは互いに、またすべての人に対してこのような者となるのです。それは単に互いに愛のわざを行うというだけのことではありません。むしろそれはもっと深い意味をもっています。この交わりは、わたしたちが他の人々の喜びと痛みにあずかり、それを真剣に自分のものとすることを可能とするからです。

 わたしたちはしばしば心乾き、無関心で、よそよそしく、兄弟愛ではなく不機嫌さと冷淡さと利己主義を示します。不機嫌さと冷淡さと利己主義によって教会を成長させることはできません。教会は、聖霊がもたらす愛によってのみ成長します。主はわたしたちを招きます。秘跡とカリスマと愛のわざによって、わたしとの交わりへと心を開きなさい。あなたがたのキリスト信者としての召命にふさわしく生きなさいと。

 ここで皆様に愛のわざをお願いするのをお許しください。心配しないでください。献金のお願いではありません。今日サンピエトロ広場に来る前に、わたしは重病をわずらうわずか1歳半の子どもを見舞いました。ご両親は祈っておられます。このかわいい娘の病気が治ることを主に願っています。彼女の名前はノエミといいます。このいたいけな少女はほほえんでいました。一つの愛のわざを行いたいと思います。わたしたちは彼女のことを知りませんが、彼女も洗礼を受けています。わたしたちの一人の、キリスト信者です。彼女のために愛のわざを行いたいと思います。沈黙のうちに願いたいと思います。主がこのとき彼女を助け、健康をお与えくださいますように。しばし沈黙した後、アヴェ・マリアの祈りを唱えたいと思います。では、ご一緒にノエミの回復のために聖母に祈りたいと思います。アヴェ、マリア、・・・・。皆様の愛のわざに感謝します。

PAGE TOP