教皇フランシスコの2013年11月10日の「お告げの祈り」のことば 永遠のいのち

教皇フランシスコは、年間第32主日の11月10日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語 […]

教皇フランシスコは、年間第32主日の11月10日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「今日、ドイツのパーダーボルンで、マリア・テレジア・ボンツェル(1830-1905年)が列福されます。永久聖体礼拝のフランシスコ姉妹会の創立者である彼女は、19世紀に生きた人です。聖体は、彼女がうむことのない愛をもってもっとも弱い人に献身するための霊的な力をそこからくみとった源泉でした。彼女のあかしのゆえに主に感謝します。
 わたしは、巨大な台風に襲われたフィリピンと周辺地域の国民に寄り添うことを約束したいと思います。残念ながら多くの犠牲者と甚大な被害が生じました。このわたしたちの兄弟姉妹のために、しばらくの間、沈黙のうちに、それから聖母に向けて、祈りたいと思います。また、わたしたちは具体的な支援をも彼らに送ろうとしなければなりません。沈黙のうちに祈ります。(アヴェ・マリアの祈りを唱える。)
 今日はいわゆる「水晶の夜」から75年目にあたります。1938年10月9日から10日にかけての夜、ユダヤ人と会堂、住居、商店に対して行われたこの暴行は、ショア(ホロコースト)の悲劇に向かう悲しむべき一歩となりました。わたしたちの偉大な兄であるユダヤの民に対する親しみと連帯を新たにしようではありませんか。そして神に祈ります。過去の記憶、過去の罪の記憶が、わたしたちがあらゆる憎しみと不寛容に対していっそう目覚めて反対するための助けとなりますように」。

11月8日(金)にフィリピンのレイテ島に上陸した台風30号による死者不明者は1万人を超えるともいわれています。教皇は10日、ピエトロ・パロリン国務省長官を通じてベニグノ・アキノ3世大統領に対して見舞の電報を送るとともに、11日、教皇庁開発援助促進評議会を通じて15万ドルの支援金を送りました。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。今日は。

 今日の主日の福音は、復活があることを否定するサドカイ派の人々に反論するイエスの姿を示します。サドカイ派の人々がこのテーマについてイエスに問いかけたのは、イエスを困らせて、死者の復活についての信仰をあざ笑うためでした。彼らは「一人の女性が七人の夫をもった。彼らが次々に死んだからである」という仮想のケースを持ち出してからイエスに尋ねます。「その女は死後、だれの妻になるのでしょうか」。つねに柔和で忍耐強いイエスは、まずこう答えます。死後のいのちをこの世の基準で計ることはできません。永遠のいのちとは、別次元における、もう一つのいのちです。そこにはもはや結婚は存在しません。結婚はこの世の生活と結びついたものだからです。イエスはいいます。復活した人々は、天使のような者であり、わたしたちが今、味わうことも想像することもできない、別の状態で生きることになります。イエスはこのように説明しました。
 しかし、イエスはその後、いわば反撃を行います。その際、彼は単純かつ独創的なしかたで聖書を引用します。そのためわたしたちは、わたしたちの師であるかた、それも唯一の師であるかたへの驚きに満たされます。イエスは、復活の証拠を、モーセと燃える柴の話のうちに見いだします(出エジプト3・1-6参照)。神はそこでアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神としてご自分を現されました。神の名は、神がご自身と結びつけた男女の名前と結びつけられます。そしてこのきずなは死よりも強いものです。わたしたちは神とわたしたちの関係、神とわたしたち一人ひとりとの関係についても、こういうことができます。神はわたしたちの神です。神はわたしたち一人ひとりの神です。神はわたしたちの名を帯びているかのようです。そう述べることは、神の心に適います。それが契約です。だからイエスはいうのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」(ルカ20・38)。これこそが決定的なきずなです。根本的な契約です。すなわちイエスとの契約です。イエスご自身が契約です。イエスご自身がいのちであり、復活です。イエスは十字架につけられた愛によって、死に打ち勝ったからです。神はイエスのうちに、わたしたちに永遠のいのちを与えてくださいます。それをすべての人に与えてくださいます。だからすべての人はイエスのおかげで、この世のいのちよりもいっそう真実ないのちを希望することができます。神がわたしたちに用意してくださるいのちは、この世のいのちの単なる飾りではありません。それはわたしたちの想像を超えたものです。神はその愛とあわれみをもって、わたしたちをつねに驚かせるからです。
 それゆえ、将来起こるのは、サドカイ派の人々が期待していたのと反対のことです。永遠のいのち、すなわち、わたしたちが待ち望む来世のいのちの基準となるのは、この世のいのちではありません。むしろ、永遠のいのちこそが、わたしたち皆の地上のいのちを照らし、それに希望を与えるのです。人間の目だけで見るなら、人間の歩みは生から死へと向かうというほかありません。そのことは明白です。しかし、それはわたしたちが人間の目で見た場合にすぎません。イエスはこのような見方を逆転させていいます。わたしたちの旅路は、死からいのちへと向かいます。完全ないのちへと向かいます。わたしたちは途上にいます。完全ないのちに向けて旅しています。そして、この完全ないのちこそが、途上にあるわたしたちを照らします。それゆえ、死は、わたしたちの後ろ、背後にあるのであって、前にあるのではありません。わたしたちの前には、生ける神、契約の神、わたしの名、わたしたちの名を帯びた神がおられます。神がいわれるとおりです。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。神はわたしの名、あなたの名、すべての人の名、そしてわたしたちの名を帯びておられます。神は生きている者の神です。罪と死は決定的に打ち負かされ、喜びと終わりのない光の新しい時が始まります。しかし、すでにこの世においても、わたしたちは祈りと秘跡と兄弟愛のうちに、イエスとその愛に出会います。こうしてわたしたちは復活のいのちをある意味で前もって味わうことができます。イエスの愛と忠実の体験は、わたしたちの心にいわば火をともし、復活への信仰を強めます。実際、もし神が忠実で愛するなら、それは限られた時間にとどまることはできません。忠実は永遠であり、変わることがありえません。神の愛は永遠で、変わることがありえません。それは限られた時間にとどまらずに、永遠です。そしてそれは前進します。神は永遠に忠実であり、わたしたちを待っておられます。わたしたち皆を待っておられます。永遠の忠実をもって、わたしたち皆とともに歩んでくださるのです。

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