教皇フランシスコの25回目の一般謁見演説 洗礼の秘跡

11月13日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの25回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「洗礼の秘跡」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。 講話の終 […]

11月13日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの25回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「洗礼の秘跡」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

講話の終わりに、教皇はイタリア語でシリア情勢とフィリピンの台風被害に関して次の呼びかけを行いました。
「兄弟姉妹の皆様。2日前、ダマスカスで、迫撃砲の攻撃により、学校から帰宅途中の数人の子どもとバスの運転手が亡くなったことを聞き、深い悲しみを覚えます。他の子どもたちもけがをしました。このような悲劇がどうか二度と起こらないように、熱心に祈らなければなりません。この数日間、わたしたちは、台風の被害を受けたフィリピンの兄弟姉妹を助けるために、祈り、力を合わせています。いのちのため、二度と死がもたらされないため――これこそ真に戦うべき戦いです」。
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親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 毎日曜日、わたしたちの信仰を告白するために唱える信条の中で、わたしたちはこう述べます。「罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認めます」。これは信条の中ではっきりと秘跡に言及する唯一の箇所です。実際、洗礼は、信仰とキリスト教的生活への「門」です。復活したイエスは使徒たちに次の命令を残しました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音をのべ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われる」(マルコ16・15-16)。教会の使命は、福音を宣教し、洗礼の秘跡を通じて罪をゆるすことです。ところで、信条のことばに戻りたいと思います。このことばを3つの要点に分けることができます。「認めます」、「唯一の洗礼」、「罪のゆるしをもたらす」です。

 1 「認める」。これはどういう意味でしょうか。これは、洗礼という、認める対象がきわめて重要であることを示す、荘厳なことばです。実際わたしたちは、このことばを唱えることにより、わたしたちがまことに神の子であることを認めます。洗礼はある意味でキリスト信者の身分証明書であり、キリスト信者を生み出す行為です。すなわち、キリスト信者を教会へと生み出す行為です。皆様はすべて、もちろん、自分が生まれた日を知っており、誕生日を祝います。わたしたちは皆、誕生日を祝います。一つの質問をしたいと思います。この質問は別の機会にしたことがありますが、もう一度行います。皆様の中に、自分の洗礼日を覚えている人がいますか。いたら手を挙げてください。あまりいないですね(司教の皆様には、恥をかかせないために、この質問をしません)。そこで、一つのことをしてください。今日、家に帰ったら、自分がいつ洗礼を授けられたか、尋ねてください。調べてください。洗礼日は、第二の誕生日だからです。第一の誕生日は人生へと生まれた日であり、第二の誕生日は教会へと生まれた日です。今申し上げたことをやってくださいますか。これは自宅での宿題です。自分が教会へと生まれた日を調べ、主に感謝してください。洗礼の日に、教会への門がわたしたちの前に開かれたからです。同時に洗礼は、罪のゆるしへの信仰と関連しています。実際、ゆるしの秘跡、あるいは告白は、「第二の洗礼」のようなものです。この第二の洗礼は、つねに第一の洗礼へと立ち帰ります。それは、第一の洗礼を強め、新たにするためです。その意味で、わたしたちが洗礼を受けた日は、すばらしい旅路の出発点です。生涯続く神への旅、すなわち回心の旅の出発点です。この旅はゆるしの秘跡によってつねに支えられます。次のことを考えてみてください。自分の弱さと罪を告白しに行く際、わたしたちはイエスのゆるしを願いますが、同時に、このゆるしによって洗礼を新たにするのです。これはすばらしいことです。それはあたかも、毎回の告白により、洗礼日を祝うことです。だから告白は拷問室ではなく、祝いです。告白は、洗礼を受けた人のためにあります。それはキリスト信者の尊厳を表す白い衣を清く保ちます。

 2 第二の要素は「唯一の洗礼」です。このことばは聖パウロのことばを思い起こさせてくれます。「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」(エフェソ4・5)。「洗礼」ということばは文字通りには「浸すこと」を意味します。実際、この秘跡は、キリストの死に霊的な意味で本当に浸すことから成ります。人はそこから、キリストとともに新しい被造物として復活させられるのです(ローマ6・4参照)。洗礼とは、新しく生まれさせ、照らす、洗いです。新しく生まれさせられるのは、それが水と霊からの誕生を引き起こすからです。だれでも水と霊とによって生まれなければ、天の国に入ることはできません(ヨハネ3・5参照)。照らすのは、洗礼を通じて、人はキリストの恵みに満たされるからです。キリストは「世に来てすべての人を照らし」、罪の闇を打ち滅ぼす「まことの光」(ヨハネ1・9)です。だから洗礼式のとき、両親は、火をともしたろうそくを手渡されます。それは、この照らしを表すためです。洗礼はイエスの光によってわたしたちを内側から照らします。洗礼を受けた人は、このたまものの力により、その人自身が「光」となるように招かれます。彼らはこの信仰の光を、兄弟のため、とくに闇の中にいて、人生の中でかすかな光さえも見ることのできない人々のために、受けたのです。

 わたしたちは自らに問いかけなければなりません。洗礼はわたしにとって過去の出来事であり、今日皆さんが調べなければならない特定の日だけに起きたことでしょうか。それともそれは、わたしの現在とすべての瞬間にかかわる、生きた現実でしょうか。皆様は、自分が、キリストからその死と復活によって与えられた力によって強められていると感じているでしょうか。それとも、無力で、疲れ果てていると感じているでしょうか。洗礼は力と光を与えます。皆様はキリストからもたらされる光によって照らされていると感じているでしょうか。皆様は光の人でしょうか。それとも、イエスの光をもたない、暗い人でしょうか。洗礼の恵みを受け取らなければなりません。洗礼は贈り物です。そして、すべての人に対して光とならなければなりません。

 3 最後に、「罪のゆるしをもたらす」という、第三の要素に簡単に触れたいと思います。洗礼の秘跡の中で、原罪と自罪を含めたすべての罪と、罪のすべての罰がゆるされます。洗礼により、実際に新たな人生への門が開かれます。人生はもはや否定的な過去の重荷に押しつぶされることなく、人は天の国の美と善をすでに味わいます。それは、わたしたちを救うために、神のあわれみの力がわたしたちの人生に働きかけることです。この救いの働きは、わたしたちの人間本性から弱さを取り去りません――わたしたちは皆、弱い罪人です――。それはわたしたちから、過ちを犯すたびにゆるしを願う責務をも取り去りません。わたしは何度も洗礼を受けることはできませんが、罪を告白して、洗礼の恵みを新たにすることは可能です。罪の告白は、いわば第二の洗礼を受けることです。主イエスはいつくしみに満ち、うむことなくわたしたちをゆるしてくださいます。わたしたちの弱さと罪のために、わたしたちを教会に導き入れるために洗礼が開いてくれた門が閉じかけたときも、告白はこの門を再び開きます。告白は、わたしたち皆をゆるし、主の光とともに前進できるようわたしたちを照らしてくれる、第二のゆるしのようなものだからです。喜びをもって進んでいこうではありませんか。わたしたちはイエス・キリストの喜びをもって人生を生きるからです。これこそが主の恵みです。

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