教皇フランシスコの26回目の一般謁見演説 罪のゆるし

11月20日(水)午前10時15分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの26回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「罪のゆるし」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。 講話の終 […]

11月20日(水)午前10時15分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの26回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「罪のゆるし」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

講話の終わりに、教皇はイタリア語で次の呼びかけを行いました。

「1.明日11月21日の聖マリアの奉献の記念日に、『祈る人のための日』を祝います。これは禁域で生活する修道共同体を思い起こすための日です。これは、隠世修道院や隠修修道院で、祈りと沈黙のために身をささげる多くの人々を与えてくださったことを神に感謝するためのよい機会です。この禁域の生活のあかしのゆえに主に感謝します。また、これらのわたしたちの兄弟姉妹が、その重要な使命を果たせるよう、わたしたちの霊的また物質的な支えを欠くことがありませんように。

2.来たる11月22日から国連の『世界農村家庭年』が始まります。その目的は、農業経済と農村の発展が家庭のうちに被造物を尊重し具体的な必要に留意する働き手を見いだすことを強調することです。労働においても、家庭は、家族全員の一致と連帯を生き、配慮と助けを必要とする人にとくに気を配り、社会紛争を未然に防ぐための、兄弟愛の模範です。そのため、この時宜にかなった取り組みを喜ぶとともに、この取り組みが、家庭が人類共同体全体の経済的・社会的・文化的・道徳的発展にもたらすはかりしれない恩恵を評価するために役立つことを願います」。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 先週の水曜日に、とくに洗礼との関連において、罪のゆるしについてお話ししました。今日は罪のゆるしというテーマを続けますが、いわゆる「鍵の権能」との関連でお話しします。「鍵の権能」は、イエスが使徒たちに与えた使命を表す聖書の象徴表現です。

 まず、罪のゆるしを行う主体は聖霊であることを思い起こさなければなりません。復活したイエスは、二階の広間で最初の使徒たちに現れたとき、彼らに息を吹きかけて、こういわれました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたがゆるせば、その罪はゆるされる。だれの罪でも、あなたがたがゆるさなければ、ゆるされないまま残る」(ヨハネ20・22-23)。肉体において変容したイエスは、今や新しい人です。このかたは、ご自分の死と復活の実りである、過越のたまものを与えます。このたまものとは何でしょうか。平和と喜び、罪のゆるし、派遣です。しかし彼は、何よりも、これらすべてのものの源泉である、聖霊を与えてくださいます。イエスの息は、聖霊を与えるときに述べたことばとともに、いのちを伝えること、それもゆるしによって生まれ変わったいのちを伝えることを示します。

 しかし、イエスは、息を吹きかけ、霊を与える前に、ご自分の手と脇腹の傷を示します。これらの傷は、わたしたちの救いの代価です。聖霊は、イエスの傷「を通って」神のゆるしをわたしたちに与えます。イエスはこの傷を残すことを望みました。今このときも、天におられるイエスは、御父に傷を示します。この傷によってわたしたちはあがなわれたのです。この傷の力によってわたしたちの罪はゆるされます。イエスはこのようにして、わたしたちの平和と喜びのため、わたしたちの霊魂に恵みのたまものを与えるため、わたしたちの罪のゆるしのために、ご自分のいのちをささげたのです。このようなイエスの姿を仰ぎ見るのはすばらしいことです。

 第二の点はこれです。イエスは使徒たちに罪をゆるす権能を与えます。人間がどうやって罪をゆるすことができるのかを理解するのは、すこしむずかしいことです。しかしイエスはこの権能を与えるのです。教会は、ゆるしへと開き、閉ざすという、鍵の権能の保管者です。神は最高のあわれみにより、すべての人をゆるします。しかし、神ご自身が、キリストと教会に属する者が共同体の役務者を通じてゆるしを受けなければならないと望まれました。神のあわれみは、使徒的な役務を通じてわたしに届き、わたしのとがはゆるされ、わたしは喜びを与えられます。イエスはこのようにして、教会的、共同体的次元において和解を生きるようわたしたちを招くのです。これはたいへんすばらしいことです。聖であると同時に悔い改めを必要とする教会は、わたしたちの生涯全体にわたる回心の歩みに同伴します。教会は鍵の権能の主人ではなく、あわれみの役務の奉仕者です。そしてこの神のたまものを与えることができるたびに喜びを覚えます。

 おそらく多くの人はゆるしの教会的な次元が分かっていません。個人主義と主観主義が支配しており、わたしたちキリスト信者もその影響を受けているからです。神がすべての悔い改める罪人をゆるすことは確かです。しかし、キリスト信者はキリストに結ばれており、キリストは教会と一つに結ばれています。わたしたちキリスト信者にはもう一つのたまものがあります。もう一つの課題があります。すなわち、へりくだって教会の役務を通るということです。わたしたちはこのことを大切にしなければなりません。それはたまものであり、気遣いであり、守りであり、神がわたしをゆるしてくださったという確信でもあります。わたしは兄弟である司祭のところに行って、いいます。「神父様、わたしはこのようなことをしました・・・・」。司祭はこたえていいます。「しかし、わたしはあなたをゆるします。神はあなたをゆるしてくださいます」。このとき、わたしは神がわたしをゆるしてくださったことを確信するのです。これはすばらしいことです。神がつねにわたしをゆるしてくださること、うむことなくゆるしてくださることを確信できるからです。ゆるしを求めにいくことにうんではなりません。罪を告白するのは恥ずかしいことかもしれません。けれども、わたしたちの母や祖母がいったとおり、何千回も黄色になるよりは、一度赤くなったほうがよいのです。一度赤くなれば、わたしたちの罪はゆるされ、前に進んで行けるのです。

 最後の点はこれです。司祭は罪のゆるしのための道具です。教会の中で与えられる神のゆるしは、わたしたちの兄弟である司祭の役務によってもたらされます。司祭もわたしたちと同様にあわれみを必要とする人間ですが、真の意味であわれみの道具となり、父である神の限りない愛をわたしたちに与えてくれるのです。司祭も、司教も、罪を告白しなければなりません。教皇も15日に1回、告解します。教皇も罪人だからです。聴罪司祭はわたしが話すことを聞き、わたしに助言し、わたしをゆるします。わたしたちは皆、このゆるしを必要とするからです。時として、神に直接告白したいという人がいます。・・・・たしかに、以前申し上げたとおり、神はつねにあなたに耳を傾けてくださいます。しかし、ゆるしの秘跡の中で、神は、神の名をもってあなたにゆるしと、ゆるしの確信をもたらす兄弟を派遣するのです。

 司祭が罪をゆるすために神に代わって役務として果たす奉仕は、たいへんデリケートなものです。そのために、司祭の心は平安に満ちていなければなりません。司祭は平安な心をもたなければなりません。信者を虐待せず、柔和で、寛大で、あわれみに満ちていなければなりません。心に希望の種を蒔き、何よりも、ゆるしの秘跡に近づく兄弟姉妹がゆるしを求めていることを自覚しなければなりません。多くの人がいやしていただくためにイエスに近づいたのと同じように。このような心の準備ができていない司祭は、自分を矯正するまで、ゆるしの秘跡を執行しないほうがよいでしょう。悔い改める信者は、そればかりかすべての信者は、神のゆるしの奉仕を行う司祭を見いだす権利をもっています。

 親愛なる兄弟の皆様。わたしたち教会の成員は、神ご自身が与えてくださるこのたまもののすばらしさを自覚しているでしょうか。教会がわたしたちにもたらすいやしと母としての気遣いの喜びを感じているでしょうか。単純かつ熱心にこのたまものに感謝しているでしょうか。神がうむことなくわたしたちをゆるしてくださることを忘れないでください。司祭の役務を通して、神はあらためてわたしたちを抱きしめてくださいます。こうしてわたしたちは生まれ変わり、再び立ち上がり、再び道を歩み始めることができるのです。たえず再び立ち上がり、再び道を歩み始めること、これがわたしたちの人生だからです。

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