教皇フランシスコの27回目の一般謁見演説 からだの復活――キリストに結ばれて死ぬ

11月27日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの27回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「からだの復活」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。 ――― […]

11月27日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの27回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「からだの復活」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 お早うございます。そして、この寒さの中、勇気をもって広場に来られた皆様を心から称賛します。

 「信仰年」の間行ってきた「信条」についての講話を終えたいと思います。「信仰年」は先の日曜日に閉年したからです。今日の講話と次回の講話で、からだの復活というテーマを考察したいと思います。その際、『カトリック教会のカテキズム』で示された二つの側面を取り上げます。すなわち、イエス・キリストに結ばれたわたしたちの死と、復活です。今日は前者の側面、すなわち「キリストに結ばれて死ぬこと」を取り上げます。

 1 わたしたちの間には普通、間違った死の見方が存在します。死はすべての人にかかわります。そして、わたしたちに深く問いかけます。とくに死が迫ったとき、あるいは死が「つまずき」を引き起こすような形で、小さな者、無防備な者を襲ったときです。わたしはいつも次の問いかけに襲われます。なぜ子どもが苦しむのでしょうか。なぜ子どもが死ぬのでしょうか。もし死をすべての終わりと考えるなら、死は恐怖を与え、おじけづかせ、脅威となります。それはあらゆる夢を打ち砕き、あらゆる関係を壊し、あらゆる歩みを中断します。人生を、誕生と死の両極の間に閉ざされた時と考えるなら、また、現世を超えた地平を信じないなら、そして、神が存在しないかのように生きるなら、このことがいえます。死についてのこのような概念は、無神論的思想に典型的なものです。無神論は、人生を、世界の中で偶然に見いだされ、無に向かって歩むものと解釈するからです。しかし、実用主義的な無神論も存在します。この無神論は、自分の利益だけのために、そして、この世のことがらだけのために生きるのです。死についてのこのような間違った見方に捕らわれるなら、恐れを引き起こすことのないように、死を隠蔽し、否定し、どうでもよいものにするほかありません。

 2 しかし、この偽りの解決法は、人の「心」に逆らいます。わたしたち皆がもっている無限なものへの望み、わたしたち皆がもっている永遠へのあこがれに逆らいます。では、死のキリスト教的意味は何でしょうか。人生のもっとも辛いとき、すなわち、愛する人――両親、兄弟、姉妹、配偶者、子ども、友人――をなくしたときのことを考えるなら、次のことに気づきます。喪失を悲しみ、離別に苦しむときにも、心の中から確信が湧き起こります。すべてが終わりになることはありえない。与え、受けた善は決してむだにならないと。わたしたちの心のうちには強力な本能があり、この本能は、人生が死をもって終わることはないと語りかけてくるのです。

 このいのちへの渇望は、イエス・キリストの復活のうちに現実の信頼の置けるこたえを見いだしました。イエスの復活は、死を超えたいのちへの確信を与えてくれるだけではありません。それは、わたしたち一人ひとりの死の神秘そのものも照らしてくれます。イエスに結ばれ、イエスに忠実に生きるなら、死への歩みにも、希望と落ち着きをもって立ち向かうことができます。実際、教会はこう祈ります。「死を悲しむ者も、とこしえのいのちの約束によって慰められます」。これはすばらしい教会の祈りです。人は、自分が生きたのと同じしかたで死に向かいます。わたしは、人生を主とともに、主の限りないあわれみに信頼して歩むなら、地上の生涯の最後の時を受け入れる準備をすることができます。それは、顔と顔とを合わせて主を仰ぎ見ることを期待しながら、わたしを受け入れてくださる主のみ手に信頼をもって決定的に自分をゆだねる時となるからです。これはわたしたちに起こりうる、すばらしいことです。すなわちそれは、主のすばらしいみ顔を顔と顔とを合わせて仰ぎ見ることです。美しく、光と愛と優しさに満ちた主をありのままに見ることです。主を見ること――わたしたちはこの目的に向けて歩むのです。

 3 このような展望から、イエスの次の招きを理解することができます。いつも準備していなさい。目を覚ましていなさい。この世の人生は、来世のいのち、すなわち天におられる父とともにいるいのちのために与えられていることを自覚しなさいと。そのために確かな道があります。イエスに寄り添いながら、よい死の準備をすることです。どうすればイエスに寄り添うことができるでしょうか。祈りと、秘跡と、愛の実践によってです。わたしたちは、イエスがもっとも無力な人、貧しい人の中におられることを思い起こします。イエスご自身が、最後の審判のたとえの中で、彼らがご自身と同じであるといわれます。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。・・・・わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・35-36、40)。それゆえ、確かな道は、キリスト教的愛と兄弟の分かち合いの意味を再発見することです。わたしたちの隣人の肉体的また精神的な傷をいやすことです。苦しみを共有し、希望を与える連帯は、わたしたちのために用意されたみ国を受け継ぐための前提条件です。あわれみのわざを行う人は死を恐れません。このことをよく考えてください。あわれみのわざを行う人は死を恐れません。賛成してくださいますか。忘れないように、ご一緒に唱えてくださいますか。あわれみのわざを行う人は死を恐れません。では、なぜ死を恐れないのでしょうか。兄弟の傷のうちに死を見いだし、イエス・キリストの愛によってこの死を乗り越えるからです。

 自分の人生と心の戸を、もっとも小さい兄弟に開くなら、わたしたちの死も、わたしたちを天の聖なる故国へと導く門となります。わたしたちはこの門に向かい、父である神とイエスとともに、そして聖母とすべての聖人とともに永遠の住むことを願っているのです。

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