教皇フランシスコの28回目の一般謁見演説 からだの復活(二)――キリストの復活とわたしたちの復活

12月4日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの28回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、前回に続いて「からだの復活」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語) […]

12月4日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの28回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、前回に続いて「からだの復活」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇はイタリア語で次の呼びかけを行いました。
「今、皆様に、シリアのマルラにある聖テクラ・ギリシア正教修道院の修道女のかたがたのためにお祈りくださるようお願いします。この修道女のかたがたは二日前に武装した男たちによって強制的に拉致されたのです。この修道女のかたがたと、引き続く紛争により誘拐されたすべての人々のために祈ります。平和のために、祈り、働き続けてください。聖母に祈ります。(アヴェ・マリアの祈り)」。
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親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 今日はもう一度「からだの復活を信じます」ということばに立ち戻ります。これは単純な真理でも、決して自明なことでもありません。なぜなら、この世に浸されて生きているわたしたちにとって、未来のことを理解するのは容易でないからです。しかし、福音がわたしたちを照らしてくれます。わたしたちの復活はイエスの復活と密接に結ばれています。イエスが復活したことは、死者が復活することの証拠です。ここで、キリストの復活とわたしたちの復活の関係にかかわるいくつかの点をお示ししたいと思います。キリストが復活したので、わたしたちも復活するのです。

 まず、聖書そのものに、死者の復活についての完全な信仰への歩みが含まれています。それは、霊魂と肉体を含めた人間全体の造り主である神への信仰として、また、解放者であり、ご自分の民との契約に忠実なかたである神への信仰として表されます。預言者エゼキエルは、流謫に遭った人々の墓が再び開き、いのちをもたらす霊が吹きつけられることによって枯れた骨が生き返るのを目の当たりにします。この幻は、未来の「イスラエルの復活」、すなわち、敗北し、さげすまれた民が再生することへの希望を表します(エゼキエル37・1-14参照)。

 新約において、イエスはこの啓示を実現します。彼は復活への信仰をご自身と結びつけて、こういわれます。「わたしは復活であり、いのちである」(ヨハネ11・25)。実際、主イエスは、ご自分を信じる者を終わりの日に復活させます。イエスはわたしたちのただ中に来られ、罪を除いて、すべてにおいてわたしたちと同じように人となりました。こうしてイエスはわたしたちを父へと戻る道に伴ってくださいます。受肉し、わたしたちのために死んで復活したみことばであるイエスは、弟子たちに聖霊を与えます。聖霊は、わたしたちが目覚めて待ち望んでいる、栄光のみ国における完全な交わりの保証です。この期待が、わたしたちの希望の源泉であり、理由です。この希望は、わたしたちがそれを深め、守るなら、わたしたちの個人また共同体の歴史を照らす光となります。わたしたちは次のことをいつも思い起こさなければなりません。わたしたちは、かつて来られ、日々来ておられ、終わりの時に来られるかたの弟子です。このことをますます心にとめるなら、日々の生活に疲れることも、過ぎ去ることに捕らわれることもなくなり、ますますあわれみ深い心をもって救いの道を歩む心構えがもてるようになります。

 もう一つの点はこれです。復活するとは、どういうことでしょうか。わたしたち皆の復活は、終わりの日に、すなわち世の終わりに、神の全能のみわざによって起こります。神はイエスの復活の力によって、わたしたちの肉体に再びいのちを与え、それを霊魂と再び結合します。根本的な説明はこれです。イエスが復活したので、わたしたちも復活します。わたしたちが復活を希望するのは、イエスがこの復活への門をわたしたちに開いてくださったからです。このようなわたしたちの肉体の変化、すなわち変容は、秘跡、とくに聖体におけるイエスとの関係によって、この世で準備されます。この世でイエスのからだと血によって養われたわたしたちは、イエスと同じように、イエスとともに、イエスによって復活します。イエスはご自身の肉体とともに復活しましたが、地上のいのちに戻って来たのではありません。それと同じように、わたしたちが自分の肉体とともに復活するとき、肉体は栄光のからだに造り変えられます。これは嘘ではなく、本当です。わたしたちはイエスが復活したことを信じます。イエスが今このときも生きておられることを信じます。けれども、皆様はイエスが生きておられることを信じていますか。皆様は、イエスが生きておられるなら、わたしたちを死なせず、復活させることもないと考えるかもしれません。そうではありません。わたしたちはイエスを待ち望みます。なぜなら、イエスは復活したかただからです。イエスの復活の力がわたしたち皆を復活させるからです。

 最後の点はこれです。わたしたちはある意味ですでにこの世で、キリストの復活にあずかります。イエスは世の終わりにわたしたちを復活させます。そのことが本当なら、次のことも本当です。わたしたちはある意味で、すでにイエスとともに復活させられています。永遠のいのちはすでにこの世で始まります。人生全体を通じて始まります。人生はこの終わりの日の復活の時に向けて方向づけられているからです。実際、わたしたちはすでに復活させられています。わたしたちは洗礼によってキリストの死と復活に接ぎ木され、新しいいのちにあずかります。新しいいのちとは、キリストのいのちです。それゆえわたしたちは、終わりの日を待ち望みながら、自分のうちに復活の種を宿しています。それは、わたしたちが受け継ぐことになる完全な復活の先取りです。そのため、わたしたち一人ひとりのからだも、永遠のいのちを響かせています。だから、からだをつねに尊ばなければならないのです。とくに苦しむ人のいのちを尊び、愛さなければなりません。それは、彼らが、神の国が近づいていること、また、わたしたちがめざす永遠のいのちの姿を感じ取ることができるためです。このことを考えることが、わたしたちに希望を与えます。わたしたちは復活をめざして歩んでいます。イエスを見ること、イエスと出会うこと――これがわたしたちの喜びです。この広場だけでなく他の場所でも、皆、イエスとともに喜ぼうではありませんか。これがわたしたちのめざす目的です。

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