教皇フランシスコの29回目の一般謁見演説 最後の審判と永遠のいのち

12月11日(水)午前10時から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの29回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「最後の審判と永遠のいのち」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。 […]

12月11日(水)午前10時から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの29回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、「最後の審判と永遠のいのち」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇はイタリア語で次の呼びかけを行いました。
「昨日カリタスは飢餓と食糧不足撲滅のためのキャンペーンを開始しました。テーマは『唯一の人類家族、すべての人のための食糧』です。何百万もの人が飢餓に苦しんでいるというスキャンダルは、わたしたちを麻痺させるのではなく、この不正をなくすための行動をわたしたちに促します。それも、個人、家庭、共同体、団体、政府を含めたすべての人に。イエスの福音はわたしたちに道を示します。すなわち、父の摂理に信頼し、日ごとのパンをむだなく分かち合うことです。カリタスがこの取り組みを推進することを励ますとともに、すべての人がこの連帯の『ウェーブ』に加わってくださるようお願いします」。
国際カリタスの呼びかけにより、世界の飢餓を解決しようとする祈りと行動による世界キャンペーンが12月10日の「世界人権デー」から2015年5月まで開催されています。
――― 

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 今日からわたしたちの信仰宣言に関する最後の連続講話を始めたいと思います。この講話で扱うのは「永遠のいのちを信じます」ということばです。とくに最後の審判を考察します。しかし、恐れてはなりません。わたしたちは神のことばが語ることに耳を傾けます。これに関して、マタイによる福音書にはこう書かれています。そのときキリストは「栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、・・・・すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、 羊を右に、山羊を左に置く。・・・・こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである」(マタイ25・31-33、46)。キリストの再臨と最後の審判は、各人が地上の生涯の間に行った善、あるいは行わなかった善の最終的な結果を示します。このことを考えるとき、わたしたちは、自分たちが凌駕することも想像することもできない神秘の前に立たされます。この神秘はいわば本能的にわたしたちのうちに恐怖を呼び起こし、また、わたしたちをおののかせます。しかし、このことをよく考えてみるなら、それはキリスト信者の心を広げ、深い慰めと信頼をもたらさずにはいません。

 このことに関連して最初のキリスト教共同体のあかしはきわめて意義深いものです。実際、彼らはいつも祭儀と祈りの際に「マラナタ」という歓呼の声を上げていました。これはアラム語の二つの語から成ることばで、それを唱えると、「主よ、来てください」という祈願を意味することになります。それはまた、「然り、主は来ておられる。主は近くに来ておられる」という、信仰によって深められた確信も表します。ヨハネの黙示録に示された驚くべき観想の末尾に置かれたこの叫び声により、キリスト教の啓示全体は頂点に達します(黙示録22・20参照)。この箇所で、花嫁である教会は、人類全体の代表、またその初穂として、花婿であるキリストの抱擁の時を待ち焦がれつつ、彼に向かいます。イエスの抱擁はいのちと愛の完成です。イエスがわたしたちを抱擁するとはこのことです。このような観点から審判を考えるなら、あらゆる恐れとおののきはなくなり、期待と深い喜びに変わります。審判の時は、わたしたちが最終的に裁かれて、婚礼の礼服であるキリストの喜びの衣をまとって、婚宴に導かれる時となります。この婚宴は、神との決定的で完全な交わりを表す象徴です。

 第二の信頼の理由は、審判の時にわたしたちが独りきりにされないという事実によって与えられます。マタイによる福音書の中で、イエスご自身があらかじめ告げます。終わりの時、わたしに従って来た人々は、わたしの栄光の座に座り、わたしとともに裁くことになると(マタイ19・28参照)。さらに使徒パウロはコリントの共同体にあてて書いた手紙の中でこう述べます。「あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。・・・・まして、日常の生活にかかわることはいうまでもありません」(一コリント6・2-3)。次のことを知ることは大いなる慰めです。わたしたちは苦境にあるとき、御父のもとにおられるわたしたちの弁護者であるキリストに加えて(一ヨハネ2・1参照)、わたしたちに先立って信仰の道を歩んだ多くの兄弟姉妹の執り成しと恩恵を頼みとすることができます。彼らはわたしたちのためにいのちをささげ、言い表しえないしかたで今もわたしたちを愛し続けているのです。聖人はすでに栄光に輝く神のみ前に生き、まだ地上で生きるわたしたちのために祈ります。この確信は、どれほどの慰めをわたしたちの心に呼び起こすことでしょう。教会はまことの母です。そして教会は母として、その子らの、それもとくに遠く離れた子ら、苦しむ子らの善を求めます。彼らがキリストの栄光のからだのうちで、すべての成員とともに完成されるためです。

 ヨハネによる福音書の中で、もう一つのことが示唆されます。そこでははっきりとこういわれます。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」(ヨハネ3・17-18)。それゆえ、これは次のことを意味します。最後の審判はすでに行われつつあります。それは今、わたしたちの生涯の中で始まります。このような審判は生涯のあらゆる瞬間に宣告されます。この審判は、わたしたちがキリストのうちに現存し働く救いを信仰をもって受け入れるか、心を閉ざして信じないかを調べるのです。しかし、わたしたちがイエスの愛に心を閉ざすなら、わたしたち自身が自らを裁くことになります。救いはイエスへと心を開くことです。わたしたちを救うのはイエスです。もし自分が罪人なら――わたしたちは皆、罪人なのですが――、わたしたちはイエスにゆるしを願います。そして、もしよくなることを望んでイエスのもとに行くなら、主はわたしたちをゆるしてくださいます。しかし、そのためにわたしたちはイエスの愛に心を開かなければなりません。イエスの愛は他のあらゆるものよりも強いからです。イエスの愛は偉大です。イエスの愛はあわれみに満ちています。イエスの愛はゆるします。しかし、心を開かなければなりません。そして心を開くとは、痛悔し、よくないこと、犯した罪について悔い改めることです。主イエスはご自身をささげました。そして今もご自身をわたしたちに与え続けます。それは、父のすべてのあわれみと恵みによってわたしたちを満たすためです。それゆえ、ある意味でわたしたちは自分自身を裁く者となり、神と兄弟との交わりを拒んだことを自ら裁くことがありえます。ですから、つねに自分の思いと行いに気をつけなければなりません。それは、今から神のみ顔の温かさと輝きを前もって味わうためです。それはすばらしいことです。わたしたちは永遠のいのちにおいて、神のみ顔の温かさと輝きを完全に仰ぎ見ることになるからです。今すでに始まっている審判のことを思いながら、前に進んで行きましょう。心をイエスとその救いに開きながら、前に進んで行きましょう。恐れることなく進んで行きましょう。イエスの愛は偉大だからです。自分の罪のゆるしを願うなら、イエスはわたしたちをゆるしてくださるからです。イエスはこのようなかたです。ですから、この確信をもって進んで行きましょう。この確信が、わたしたちを天の栄光へと導いてくれるのです。

PAGE TOP