教皇フランシスコの2013年12月15日の「お告げの祈り」のことば 福音の喜び

教皇フランシスコは、待降節第三主日の12月15日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語 […]

教皇フランシスコは、待降節第三主日の12月15日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

この日、サンピエトロ広場には、雨にもかかわらず、恒例の「幼子イエス」の祝福のために子どもたちが集まりました。教皇は「お告げの祈り」の後、イタリア語で次のように述べました。
「今日はまず、チェントロ・オラトーリ・ロマーニの主催により恒例の『幼子イエス』の祝福のために来てくださったローマの子どもたちにごあいさつ申し上げます。親愛なる子どもたち。馬小屋の前で祈るとき、わたしのことも思い起こしてください。わたしも皆さんを思い起こします。ありがとうございます。よいクリスマスをお迎えください」。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。今日は。

 今日の待降節第三主日は、「喜び(Gaudete)」の主日とも呼ばれます。この日の典礼の中では何度も「喜びなさい」という招きが唱えられます。なぜでしょうか。主が近くに来ておられるからです。降誕祭が近づいているからです。キリスト教のメッセージは「福音」と呼ばれます。「福音」とは「よい知らせ」であり、すべての民のための喜びの告知です。教会は、悲しむ人の避難所ではなく、喜びの家です。悲しむ人も教会の中に喜びを見いだします。まことの喜びを見いだします。

 しかし、福音の喜びは、他の喜びと同じではありません。福音の喜びの理由は、自分が神に受け入れられ、愛されていることを知ることのうちにあります。今日、預言者イザヤが思い起こさせてくれるとおり(イザヤ35・1-6a、8a、10参照)、神はわたしたちを救いに来られるかたです。そして、とくに心おののく人々を救ってくださるかたです。神はわたしたちのただ中に来てくださることによって、強め、堅め、勇気づけ、立ち上がらせ、荒れ地に花を咲かせます。荒れ地とは、乾ききったわたしたちの人生のことです。わたしたちの人生はどのようなときに乾ききるのでしょうか。神のことばと、神の愛の霊を欠くときです。わたしたちは、自分の限界とおののきがどれほど大きくても、困難と自分の弱さを前にして弱ることもよろめくこともありません。むしろ反対に、わたしたちはこう招かれます。弱った手に力をこめ、よろめく足を強くせよ。雄々しくあれ、恐れるな。わたしたちの神はつねにその大いなるあわれみを示してくださるからです。神はわたしたちに前進する力を与えてくださいます。神はつねにわたしたちとともにいて、わたしたちが前進できるように助けてくださいます。神はわたしたちのためになることだけを望み、わたしたちを愛します。だから神はわたしたちとともにいて、助け、力強く前進させてくださるのです。雄々しくあれ。つねに前進せよと。わたしたちは神の助けにより、いつも初めからやり直すことができます。どのようにしてでしょうか。どのようにして初めからやり直すことができるのでしょうか。こういう人がいるかもしれません。「でも、わたしは多くの罪を犯しました。・・・・わたしはひどい罪人です。・・・・初めからやり直すことなどできません」。それは間違いです。あなたは初めからやり直すことができます。なぜでしょうか。神はあなたを待っておられ、あなたの近くに来ておられ、あなたを愛し、あわれみを示し、あなたをゆるしてくださるからです。神はあなたが初めからやり直す力を与えてくださいます。神はこの力をすべての人に与えてくださいます。だからわたしたちは再び目を開き、涙と悲しみを越えて、新しい歌を歌うことができるのです。このまことの喜びは試練と苦しみのときもとどまります。それはうわべだけの喜びではなく、神に身をゆだね、信頼する人の心の奥深くに根ざしているからです。

 キリスト信者の喜びと希望の基盤は、神の忠実さです。神がご自分の約束をつねに守ってくださることへの確信です。預言者イザヤは、道に迷い、おののく人を励ましていいます。主の忠実に信頼しなさい。主の救いは遅れることなくあなたがたの生涯を満たしてくださるからです。歩いている途中でイエスに出会った人々は、だれも、また何も取り去ることのできない平安と喜びを心のうちで味わいました。わたしたちの喜びはイエス・キリストです。イエス・キリストの尽きることのない忠実な愛です。だから、悲しむキリスト信者は、イエスから離れていることになります。しかし、そのようなキリスト信者を独りにしておいてはいけません。わたしたちはその人のために祈り、共同体の温もりを感じさせなければなりません。

 おとめマリアの助けによって、わたしたちが急いでベツレヘムに行き、幼子と出会うことができますように。わたしたちのため、すべての人の救いと喜びのために生まれた幼子と。天使はマリアにいいました。「喜びなさい、恵まれたかたよ」(ルカ1・18〔フランシスコ会聖書研究所訳〕)。マリアの執り成しによって、わたしたちが家庭、職場、小教区、そしてすべての場で福音の喜びを生きることができますように。それは驚きと優しさから成る、深い喜びです。それは、母親が生まれたばかりの幼子を見たときに感じる喜びです。母親は、幼子が神のたまものであり、ただ感謝するほかない奇跡だと感じるのです。

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