教皇フランシスコの30回目の一般謁見演説 主の降誕の神秘

12月18日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの30回目の一般謁見が行われました。2013年中に行われる一般謁見はこれが最後となります。この謁見の中で、教皇は、降誕祭を間近にして「主の降誕の […]

12月18日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの30回目の一般謁見が行われました。2013年中に行われる一般謁見はこれが最後となります。この謁見の中で、教皇は、降誕祭を間近にして「主の降誕の神秘」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

教皇公邸管理部は2013年中に行われた教皇フランシスコの30回の一般謁見に際して1,548,500枚の入場整理券を発行しました。しかし、実際の参加者はしばしば入場整理券発行枚数を超えて時には10万人に達し、ピオ十二世広場に大型スクリーンが設置され、コンチリアツィオーネ通りがトラスポンチナ通りまで歩行者専用道路とされる場合もありました。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 今日の集いは待降節の霊的雰囲気の中で行われます。この雰囲気は降誕祭前の八日間の祈りによっていっそう深まります。わたしたちが今行っているこの八日間の祈りは、わたしたちを降誕祭へと導きます。それゆえ、今日わたしは皆様とともにイエスの降誕について考えてみたいと思います。イエスの降誕は、不安と悲観主義を乗り越える、信頼と希望の祝いです。わたしたちの希望の理由はこれです。神はわたしたちとともにおられます。神は再びわたしたちを信頼してくださいます。しかし、このことをよく考えてください。神はわたしたちとともにおられます。神は再びわたしたちを信頼してくださいます。父である神は寛大なかたです。神は人間とともに住むために来られます。神はご自分の住まいとして地上を選びます。それは、人間とともにいて、人間が喜びと悲しみの日々を送るところでご自分を見いださせるためです。だから、地上はもはや単なる「涙の谷」ではなく、神ご自身が天幕を張る場です。地上は神と人が出会い、連帯する場となるのです。

 神は、イエスというかたのうちにわたしたちと一つとなるに至るまで、わたしたち人間の状態を共有することを望みました。イエスはまことの人であり、まことの神です。しかし、さらに驚くべきことがあります。人類のただ中における神の現存は、理想的で牧歌的なしかたで行われたのではありません。むしろそれはこの現実世界の中で、すなわち、多くのよいことと悪いことや、分裂と悪意と貧困と横暴と戦争を特徴とするこの現実世界の中で行われたのです。神は、あらゆる限界と悲惨さの重荷を負ったありのままの姿におけるわたしたちの歴史の中に住むことを選びました。こうして神は、ご自分の造った人間への愛に満ちたあわれみの心を比類のないしかたで示しました。神はわたしたちとともにおられる神です。イエスはわたしたちとともにおられる神です。皆様はこのことを信じておられますか。ご一緒に唱えましょう。イエスはわたしたちとともにおられる神です。イエスは、歴史の苦しみと悲しみの中でも、つねに永遠にわたしたちとともにおられる神です。イエスの降誕は、神が決定的な形で人間の「味方」となってくださったことを示します。それは、わたしたちを救い、悲惨と困難のほこりと罪からわたしたちを救い出すためです。

 ここからベツレヘムの幼子という偉大な「贈り物」が生まれます。幼子はわたしたちに霊的な力をもたらします。この力は、わたしたちが自分の労苦と絶望と悲しみに沈むことのないよう助けてくれます。なぜなら、この力はわたしたちの心を温め、造り変えるからです。実際、イエスの誕生はわたしたちによい知らせをもたらします。すなわち、わたしたちは一人ひとり、神に深く愛されています。神はこの愛をわたしたちに知らせるだけでなく、与え、伝えてくださるのです。

 神の子がわたしたちのために生まれたという神秘を喜びのうちに仰ぎ見ることから、二つの結論を引き出すことができます。

 第一はこれです。神は降誕祭に、天上にいて万物を支配するかたとしてではなく、へりくだり、小さく貧しい地上に降るかたとしてご自身を示します。そうであれば、それは次のことを意味します。わたしたちが神と似たものとなるためには、人の上に立つのではなく、へりくだって、仕えなければなりません。小さい者とともに小さい者となり、貧しい者とともに貧しい者とならなければなりません。へりくだって仕えることを望まないキリスト信者を目にするのは見苦しいことです。どこでも自分を誇示するキリスト信者は、見苦しいものです。そのようなキリスト信者は、キリスト信者ではなく、むしろ異教徒です。キリスト信者は仕え、へりくだります。これらのわたしたちの兄弟姉妹が孤独を感じることのないように努めようではありませんか。

 第二の結論はこれです。神はイエスを通して、わたしたちと同じような者となるほど、人間とかかわってくださいました。そうであれば、次のことがいえます。わたしたちが兄弟姉妹にしたことは、神にしたのです。イエスご自身がこのことを思い起こさせてくださいます。人々の中でもっとも小さい者、貧しい者の一人に食べさせ、宿を貸し、見舞い、愛したのは、神の子にしたことなのです。

 イエスの母であり、わたしたちの母でもあるマリアの母としての執り成しに身をゆだねたいと思います。マリアの助けによって、降誕祭が間近に迫ったこのときにあたり、わたしたちが、隣人、とくにもっとも無力な人、除け者にされた人の顔のうちに、人となられた神の子の似姿を見いだすことができますように。

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