教皇フランシスコの2014年1月15日の一般謁見演説:洗礼の秘跡②

1月15日(水)午前10時から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、1月8日から開始した「秘跡」に関する連続講話の2回目として、再度、「洗礼の秘跡」について解説しました。以下はその全訳です。

親愛なる兄弟姉妹の皆様。お早うございます。

 先週の水曜日から、秘跡についての短い連続講話を開始し、洗礼から始めました。今日も洗礼について考察したいと思います。それは、この秘跡が生み出すきわめて大切な実りを強調するためです。すなわち、洗礼はわたしたちをキリストのからだ、神の民の一員とするのです。聖トマス・アクィナス(1224/1225-1274年)はいいます。洗礼を受ける人はいわばその部分としてキリストに合体され、信者の共同体に、すなわち神の民に加えられます(『神学大全』:Summa theologiae III, q. 69, art. 5; q. 70, art. 1〔稲垣良典訳『神学大全42』創文社2003年、133、153頁〕参照)。第二バチカン公会議に学ぶわたしたちは、今日、こういいます。洗礼はわたしたちを神の民の中に歩み入らせます。それはわたしたちを、旅する民、歴史の中を旅する民の一員とします。

 実際、いのちが世代から世代へと伝えられるのと同じように、洗礼の泉から新たに生まれることを通じて、恵みも世代から世代へと伝えられます。そしてこの恵みにより、キリスト信者の民は時間の中を歩みます。大地を潤し、世に神の祝福を広める川のように。わたしたちが福音書の中で耳にすることをイエスが述べたときから、弟子たちは洗礼を授けるために出かけました。そして、そのときから今日に至るまで、洗礼を通じた信仰の伝達の連鎖が存在します。わたしたちはおのおの、この連鎖の輪の一つです。この歩みは永遠に前進します。それは、潤す川のようです。わたしたちは自分の子どもたちに、幼子たちに、神の恵みと自分たちの信仰を伝えなければなりません。この子どもたちが大人になったとき、彼らの子どもたちに信仰を伝えることができるようにするためです。それはなぜでしょうか。洗礼がわたしたちを、信仰を伝える神の民に歩み入らせるからです。歩み、信仰を伝える神の民――これはとても大切です。

 洗礼の力により、わたしたちは「宣教する弟子」となります。世に福音を伝えるよう招かれます(使徒的勧告『福音の喜び』120参照)。「洗礼を受けた人は皆、教会における任務や信仰教育の程度の違いにかかわりなく、福音宣教を行う主体です。……新しい福音宣教は、新たなかかわり方を意味します」(同)。それにはすべての人、神の民のすべての人がかかわるのです。それは、洗礼を受けた人すべてによる、新たなかかわり方です。神の民は「弟子の民」であり――信仰を受け取るからです――、「宣教者」です――なぜなら、信仰を伝えるからです――。このことをわたしたちのうちで行うのが、洗礼です。洗礼はわたしたちに恵みを与え、信仰を伝えます。わたしたち教会のうちにいる者は皆、弟子です。そしてわたしたちはつねに、生涯を通じて、弟子なのです。わたしたちは皆、宣教者です。おのおの、主がゆだねた場所で。すべての人がそうなのです。もっとも小さな人も宣教者です。もっとも大きいと思われる人も弟子です。しかし、皆様の中でこういう人がいるかもしれません。「司教は弟子ではありません。司教は何でも知っているからです。教皇は何でも知っており、弟子ではありません」。いいえ。司教も教皇も弟子とならなければなりません。もし弟子とならないならば、よいことができないからです。宣教者となることも、信仰を伝えることもできないからです。わたしたちは皆、弟子であり、宣教者です。

 キリスト信者の召命の「神秘的」な次元と「宣教的」な次元の間には切り離すことのできないつながりがあります。ともに洗礼に根ざしているのです。「わたしたちキリスト信者は、信仰と洗礼を受けることにより、聖霊のわざを受け入れます。聖霊はわたしたちが、イエス・キリストを神の子と告白し、『アッバ』、父よと神を呼ぶように導きます。洗礼を受けたわたしたちは皆、男も女も……三位一体の神との交わりを生き、伝えるよう招かれています。福音宣教とは、三位一体の交わりにあずかるようにとの呼びかけだからです」(ラテンアメリカ・カリブ司教協議会総会『アパレシーダ最終文書(2008年)』157)。

 だれも独りで救われません。わたしたちは信者の共同体です。神の民です。そしてわたしたちはこの共同体の中で、愛の体験を分かち合うことのすばらしさを味わいます。愛の体験はわたしたち皆に先立ちますが、同時に、わたしたちが自分の限界と罪にもかかわらず、互いに恵みの「水路」となるよう求めます。共同体的な次元は単なる「枠」や「縁取り」ではなく、キリスト教的生活とあかしと福音宣教の不可欠な部分です。キリスト教信仰は教会の中で生まれ、また生きます。そして、家族と小教区は、洗礼において、新しい成員がキリストとそのからだである教会に組み入れられたことを祝います(同175b参照)。

 神の民にとっての洗礼の重要性に関して、日本のキリスト教共同体の歴史は模範となります。彼らは17世紀の初めに厳しい迫害に耐えました。多くの殉教者が生まれました。聖職者は追放され、何千人もの信者が殺害されました。日本には一人の司祭も残りませんでした。全員が追放されたからです。そのため共同体は、非合法状態へと退き、密かに信仰と祈りを守りました。子どもが生まれると、父または母がその子に洗礼を授けました。特別な場合に、すべての信者が洗礼を授けることができるからです。約250年後、宣教師が日本に戻り、数万人のキリスト信者が公の場に出て、教会は再び栄えることができました。彼らは洗礼の恵みによって生き伸びたのです。神の民は信仰を伝え、自分の子どもたちに洗礼を授けながら、前進します。このことは偉大です。日本のキリスト教共同体は、隠れていたにもかかわらず、強い共同体的精神を保ちました。洗礼が彼らをキリストのうちに一つのからだとしたからです。彼らは孤立し、隠れていましたが、つねに神の民の一員でした。教会の一員でした。わたしたちはこの歴史から多くのことを学ぶことができるのです。

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