教皇フランシスコの2014年1月19日の「お告げの祈り」のことば 世の罪を取り除く神の小羊

教皇フランシスコは、年間第二主日の1月19日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。 […]

教皇フランシスコは、年間第二主日の1月19日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇は、「世界難民移住移動者の日」にあたって、イタリア語で次のように述べました。
「親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日は『世界難民移住移動者の日』です。今年の『世界難民移住移動者の日』のテーマは、少し前に発表したメッセージの中で述べたとおり、『よりよい世界を目指して』です。ここにお集まりくださったさまざまな民族共同体の代表者の皆様、とくにローマのカトリック共同体の皆様に特別にごあいさつ申し上げます。親愛なる友人の皆様。皆様は教会の中心の近くにおられます。教会は、イエスがわたしたちの間にもたらしてくださった神の国を目指して旅する民だからです。よりよい世界に対する希望を失ってはなりません。皆様が、皆様を受け入れる国々の中で、皆様に由来する文化の価値を守りながら、平和に暮らせることを願います。移住者とともに働く人々、すなわち、移住者を迎え入れ、困難なときに彼らに同伴し、福者ジョヴァンニ・バッティスタ・スカラブリーニ(1839-1905年)が『人身を売り買いする者』と呼んだ、移住者を奴隷化する人々から彼らを守る人々に感謝します。とくに、教会のためによいわざをなし、移住者とともに移住者となっておられる、スカラブリーニ宣教会と司祭、修道女の皆様に感謝したいと思います。
 このときにあたり、多くの移住者と難民と、その苦しみ、しばしば仕事も身分証明書もない苦しい生活のことを思います。きわめて深刻で困難な状況を生きる移住者と難民のためにご一緒に祈りたいと思います。アヴェ・マリア……」。
日本の教会では「世界難民移住移動者の日」を9月の第4日曜日(2014年は9月28日)に行います。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。今日は。

 先週の主日に祝った主の洗礼の祝日をもって、「年間」と呼んでいる典礼の季節に入りました。今日の年間第二主日に、福音書はイエスと洗礼者ヨハネがヨルダン川で出会う情景を示します。これを語るのは、目撃証人である福音書記者ヨハネです。福音書記者ヨハネはイエスの弟子となる前に、兄弟ヤコブとシモン、アンデレとともに洗礼者ヨハネの弟子でした。これらの弟子は皆、ガリラヤ出身の漁師でした。すると、洗礼者は群衆の中から歩み出たイエスを見、天からの霊感を受けて、イエスが神から遣われたかたであることを認めます。そのため洗礼者はイエスを次のことばで示します。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1・29)。

 「取り除く」と訳された動詞は、文字どおりには「持ち上げる」、「自分の上に受け取る」を意味します。イエスは、まさに世を罪の奴隷状態から解放し、人類の罪を身に負うという使命をもって世に来られたのです。イエスはどのようにこの使命を果たすのでしょうか。愛することによってです。他の人のために自分のいのちを与えるよう促す愛以外に、悪と罪に打ち勝つ方法はありません。洗礼者ヨハネのあかしにおいて、イエスは主のしもべの姿をもって特徴づけられます。十字架の死に至るまで、主のしもべが「担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」(イザヤ53・4)のです。イエスは、わたしたちを清めるためにわたしたちの罪の川に身を浸す、まことの過越の小羊です。

 洗礼者ヨハネは、受ける必要がないのにもかかわらず洗礼を受けるために罪人とともに並ぶ人を、自分の前で目にします。それは、いけにえの小羊として神が世に遣わした人です。新約において「小羊」ということばは何度も現れますが、それはつねにイエスを指して用いられます。この小羊というイメージはわたしたちを驚かせるかもしれません。実際、決して力やたくましさを特徴としてもたない動物が、のしかかる重荷をその肩に担うのです。悪の巨大な塊が、無力な弱い被造物によって取り去られます。この被造物は、自分自身を犠牲としてささげるまでの従順と素直さと無防備な愛の象徴です。小羊は支配するのではなく、聞き従います。攻撃的ではなく、平和的です。攻撃に対して爪や歯を示すのではなく、それを耐え忍び、逆らいません。これがイエスの姿です。小羊のようなイエスの姿です。

 神の小羊であるイエスの弟子であるとは、現代の教会にとって、わたしたちにとって、どのようなことを意味するでしょうか。それは、悪意の代わりに悪意のない心を、武力の代わりに愛を、高慢の代わりに謙遜を、名声の代わりに奉仕をもたらすことです。それはよいわざです。悪意の代わりに悪意のない心を、武力の代わりに愛を、高慢の代わりに謙遜を、名声の代わりに奉仕をもたらすこと――わたしたちキリスト信者はこのことを行わなければなりません。小羊であるかたの弟子であるとは、「包囲された要塞」のように生きることではなく、開かれ、受け入れ、連帯する、山の上の町のように生きることです。それは、閉じこもった態度をとることではなく、すべての人に福音を示すことです。わたしたちはイエスに従うことによって、より自由で喜びに満ちた者となるのだということを、自分の生活をもってあかししながら。

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