教皇フランシスコの2014年1月26日の「お告げの祈り」のことば わたしについて来なさい

教皇フランシスコは、年間第三主日の1月26日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。 […]

教皇フランシスコは、年間第三主日の1月26日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「今日は『世界ハンセン病デー』です。ハンセン病は減少しつつあるとはいえ、残念ながらいまだに多くの人をきわめて悲惨な状態に置いています。ハンセン病にかかった兄弟姉妹との連帯を生き生きと保つことが重要です。わたしたちはこれらの兄弟姉妹のために祈ることを約束します。また、彼らを世話する人と、さまざまなしかたでこの病気を根絶するために努力するすべての人のためにも祈ります。
 わたしはウクライナの人々、とくに最近いのちを失った人とそのご家族に祈りをもって寄り添います。諸機関と市民社会の間で建設的な対話が発展し、あらゆる暴力行為を避け、平和の精神と共通善の追求がすべての人の心を占めることを願います。
 今日は広場にとても大勢の子どもがいます。この子どもたちとともに、カッサーノ・アッリオーニオで、車内で焼き殺された三歳のココ・カンポロンゴのことを思います。このような小さな子どもへの憎しみは、犯罪史上、前例がないと思われます。必ず天国でイエスとともにいるに違いないココとともに、このような罪を犯した者たちのために祈りたいと思います。彼らが悔い改めて主に立ち帰りますように。
 数日後から、多くの極東と世界のさまざまな地域に住む人々、すなわち中国、韓国、ベトナムの人々が旧正月を祝います。これらのかたがたすべてが、喜びと希望に満ちた生活を送られますように。彼らの心に宿る、兄弟愛への抑えがたい望みが、家族の親密な交わりのうちに特別な場を見いだすことができますように。家族という場を再発見し、教育し、実現しなければなりません。このことが、平和が支配する、より人間らしい世界を築くための貴重な貢献となるのです。
 昨日ナポリで、マリア・クリスティーナ・ディ・サヴォイア(1812-1836年)が列福されました。彼女は19世紀前半に生きた、両シチリア王(フェルディナンド二世)の王妃です。深い霊性と謙遜を備えたこの女性は、自分の民の苦しみを自ら担うことができ、貧しい人々のまことの母となりました。彼女の特別な愛のわざの模範は、あらゆる環境と社会状況においても福音にもとづいていつくしみ深く生きることが可能であることをあかしします」。
ウクライナではロシア寄りのヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領の政権が昨年11月、EUとの連合協定への署名を延期したことに反発し、首都キエフで大規模反対集会が継続しています。1月16日に表現・集会の自由を制限する法案が採択されたことに反発するデモ隊が19日、警察部隊と衝突、これまでに少なくとも3名が死亡しています。
イタリア南部カラブリア州コゼンツァ県のカッサーノ・アッリオーニオで、1月20日、3歳の少年のニコラ(愛称ココ)・カンポロンゴとその祖父(52歳)と祖父の知人の女性(27歳)が車内で焼死体で見つかりました。殺害の原因は、殺された祖父の麻薬のための負債といわれています。
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 親愛なる兄弟姉妹の皆様。こんにちは。

 今日の主日の福音(マタイ4・12-23参照)は、ガリラヤの町や村におけるイエスの公生活の開始を物語ります。イエスの宣教はエルサレムという、宗教的・社会的・政治的な中心から出発せず、周縁地域から出発します。それは多くのユダヤ人の目からさげすまれた地域でした。なぜなら、この地域にはさまざまな異邦人が住んでいたからです。そのため預言者イザヤはそこを「異邦人のガリラヤ」(イザヤ8・23)と呼びます。

 この辺境の地は、人々が行き交う地域でした。そこでは人種、文化、宗教の異なる人々が出会いました。こうしてガリラヤは、福音がすべての民に開かれていることを象徴的に示す場所となりました。このような観点から、ガリラヤは現代世界と似通っています。現代世界では、諸文化が共存し、衝突と出会いを避けることができないからです。わたしたちも日々、「異邦人のガリラヤ」の中に浸されています。そして、こうした状況から、不安を抱き、安全と保護のために囲いを築く誘惑に陥ることもありえます。しかしイエスはわたしたちにこう教えます。わたしがもたらすよい知らせは、人類の一部に限定されたものではなく、すべての人に伝えられなければならないと。それは、これを待ち望んでいた人々にとって喜ばしい知らせです。しかしそれは、もはや期待することをやめ、探し、求める力も失った人々にとっても喜ばしい知らせなのです。

 イエスはガリラヤから出発することによって、わたしたちにこう教えます。だれも神の救いから排除されてはいない。むしろ、神は、周縁から、最後に回された人々から出発して、すべての人に達することを選ぶのだと。イエスはわたしたちに一つの方法を、すなわちご自分の方法を教えます。しかしこの方法は内容を表します。内容とは、御父のあわれみです。「すべてのキリスト信者と共同体は、主が求める道がどのようなものかを識別しなければなりません。しかし、わたしたちは皆、次の招きを受け入れるよう招かれています。自分の居心地のよいところを出て、福音の光を必要としているすべての周縁に達する勇気をもつようにと」(使徒的勧告『福音の喜び』20)。

 イエスは周縁地域からご自分の宣教を始めるだけではありません。彼はいわば「底辺に置かれた人」と呼べるような人からもそれを始めます。彼はご自分の最初の弟子、すなわち将来の使徒を選ぶために、律法学者や教師の学校ではなく、神の国の到来のために熱心に準備していた身分の低い、素朴な人々のところに赴きます。イエスは、彼らが湖のほとりで働いていたところに行って、彼らを招きます。彼らは漁師です。イエスが彼らを招くと、彼らはすぐにイエスに従います。彼らは網を捨てて、イエスとともに歩みます。彼らの生活は特別かつ魅力的な冒険となります。

 親愛なる友人の皆様。主は今日も招いておられます。主はわたしたちの日常生活の道を通られます。主は今日、この瞬間、この広場をも通られます。主はわたしたちを招きます。わたしとともに歩みなさい。現代の「ガリラヤ」で、わたしとともに神の国のために働きなさいと。皆様はおのおの考えてみてください。主は今日、通られます。主はわたしを見つめておられます。わたしを見つめ続けておられます。主はわたしに何といっておられるでしょうか。もし皆様のうちだれかが、主が「わたしについて来なさい」といわれるのを聞いたなら、勇気をもって、主とともに歩んでください。主は決して欺くことがありません。自分の心の中で、主がわたしについて来なさいと招いていないか、耳を傾けてください。主のまなざしと声を自分に向けていただこうではありませんか。そして、主に従おうではありませんか。「こうして、福音の喜びが地の果てにまで達し、いかなる周辺の地も福音の光で満たされますように」(同288)。

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