教皇フランシスコの2014年2月5日の一般謁見演説:聖体の秘跡

2月5日(水)午前10時15分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、1月8日から開始した「秘跡」に関する連続講話の4回目として、「聖体の秘跡」について解説しました。以下はその全訳です。

親愛なる兄弟姉妹の皆様、おはようございます。

 今日は聖体についてお話しします。聖体は、洗礼と堅信とともに「キリスト教入信の秘跡」の中心に位置づけられ、教会生活そのものの源泉をなします。実際、この愛の秘跡から、あらゆる信仰と交わりとあかしの歩みがわき出るのです。

 感謝の祭儀、すなわちミサを祝うために集まるときにわたしたちが見いだすものがすでに、わたしたちが生きようとしていることがらを理解させてくれます。祭儀のための場の中心には祭壇があります。祭壇は祭壇布で覆われた食卓です。それはわたしたちに祝宴のことを考えさせます。食卓の上には十字架が置かれています。それは、この祭壇上でキリストのいけにえがささげられることを示します。キリストは、パンとぶどう酒のしるしのもとに、わたしたちがこの祭壇で受ける霊的な糧です。祭壇の脇には朗読台があります。朗読台は、神のことばが告げ知らされる場所です。それは、わたしたちが、聖書を通して語られる主に耳を傾けるためにその場に集まっていることを示します。それゆえ、主のことばもわたしたちの受ける糧なのです。

 最後の晩餐のときと同じように、みことばとパンはミサの中で一つになります。最後の晩餐のとき、イエスの語られたすべてのことばと、イエスの行われたすべてのしるしは、十字架のいけにえの先取りである、パンを裂き、杯を与えるわざと、「これを取って食べなさい。これはわたしのからだである。……これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯である」ということばのうちに凝縮されます。

 最後の晩餐でイエスがなさったわざは、御父の愛とあわれみに対する最高の感謝です。ギリシア語で「感謝」のことを「エウカリスティア」といいます。だからこの秘跡は「エウカリスティア(聖体)」と呼ばれます。それは、愛のゆえに御子をわたしたちにお与えになるほどわたしたちを愛してくださった御父に対する最高の感謝です。だからエウカリスティアということばはこのわざのすべてを要約します。それは神と人とがともに行うわざ、まことの神であり、まことの人であるイエス・キリストのわざなのです。

 それゆえ、感謝の祭儀は単なる祝宴以上のものです。それは、救いの神秘の中心である、イエスの過越の記念そのものです。「記念」とは、単に思い起こすことでも、単純な想起でもありません。それは、わたしたちがこの秘跡を祝うたびごとに、キリストの受難と死と復活にあずかることです。聖体は神の救いのわざの頂点をなします。実際、主イエスは、わたしたちのために裂かれたパンとなることにより、ご自身のあわれみと愛をすべてわたしたちに注いでくださいます。そして、わたしたちの心、存在、キリストと兄弟とのかかわり方を新たにしてくださいます。だから、普通、この秘跡に近づくとき、「聖体拝領を受ける」、「聖体を拝領する」というのです。これは次のことを意味します。聖霊の力により、聖体の食卓にあずかることは、独自の深い方法でわたしたちをキリストに似せて造り変えます。そして、すでに今から、天上の祝宴の特徴である、御父との完全な交わりをわたしたちに前もって味わわせてくれます。わたしたちはこの天上の祝宴において、すべての聖人たちとともに、顔と顔とを合わせて神を仰ぎ見る喜びを味わうのです。

 親愛なる友人の皆様。わたしたちは、主が聖体によって与えてくださったたまもののゆえに、どれほど主に感謝しても感謝しきれません。それはまことに偉大なたまものです。だから、主日にミサに行くことがきわめて大切なのです。ミサに行くのは、祈るためだけではなく、聖体を拝領するためです。このパンは、イエス・キリストのからだであり、わたしたちを救い、ゆるし、御父と一つに結びつけるのです。わたしたちは主日のたびにミサに行きます。それは、主日はまさに主が復活された日だからです。だから主日はわたしたちにとってきわめて大切なのです。わたしたちは聖体によって、自分たちが教会に属すること、神の民に属すること、神のからだに属すること、イエス・キリストに属するものであることを感じます。わたしたちはこのことの価値と豊かさを知り尽くすことができません。ですから、祈ろうではありませんか。この秘跡が教会の中で主の現存を生き生きと保ち続け、御父のみ心に従って、わたしたちの共同体を愛と交わりのうちに形づくり続けてくれますように。これは生涯を通じて行われますが、初聖体の日から始めなければならないことです。子どもがよく初聖体の準備をすること、それもすべての子どもがそうすることが大切です。初聖体は、洗礼と堅信の後、イエス・キリストにしっかりと結ばれるための第一歩だからです。

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