教皇フランシスコの2014年2月9日の「お告げの祈り」のことば 地の塩、世の光

教皇フランシスコは、年間第五主日の2月9日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。 […]

教皇フランシスコは、年間第五主日の2月9日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「明後日の2月11日、わたしたちはルルドの聖母の記念日を祝い、『世界病者の日』を行います。それは病者を共同体の中心に置くための貴重な機会です。わたしは病者のために、病者とともに祈り、彼らに寄り添います。今年の『「世界病者の日」メッセージ』は聖ヨハネのことばから霊感を得ています。『信仰と愛――「わたしたちも兄弟のためにいのちを捨てるべきです」(一ヨハネ3・16)』。とくにわたしたちは病者、それもすべての種類の病者に対するイエスの態度に倣(まな)ぶことができます。主はすべての人を心にかけ、彼らと苦しみを共有し、希望へと心を開くのです。
 すべての保健従事者にも思いを致します。彼らはどれほど貴重なことをしておられることでしょうか。彼らの貴重な働きに深く感謝します。彼らは日々、病者のうちに、脆弱な身体と出会うだけでなく、人格と出会います。彼らはこの人格に注意を向け、適切にこたえます。人格の尊厳を能力や可能性に限定してはなりません。人格の尊厳は、人が衰弱し、動けなくなり、助けを必要とするときも、減じるものではありません。家族の皆様のことも思います。家族は普通、病気の人を介護します。しかし、時として状況がきわめて負担になることもあります。……多くの人がわたしに手紙をくださいます。今日わたしは、これらすべての家族のために祈ることを約束します。そしてこれらの家族の皆様に申し上げます。弱さを恐れてはなりません。弱さを恐れてはなりません。愛をもって互いに助け合ってください。そうすれば、神がともにいて慰めてくださるのを感じることができるでしょう。
 病者に対するキリスト信者の寛大な態度は、地の塩、世の光です。おとめマリアが、わたしたちがこの態度を実践できるように助けてくださり、すべての苦しむ人に平和と慰めを与えてくださいますように。
 数日前からロシアのソチで冬季オリンピックが開催されています。主催者とすべての競技参加者の皆様に祝福を送りたいと思います。この大会がまことのスポーツと友愛の祭典となりますように」。
第22回冬季オリンピックは2月7日から23日までロシアのソチで開催されています。
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 兄弟姉妹の皆様、こんにちは。

 真福八端の直後の、今日の主日の福音で、イエスは弟子たちにこう語ります。「あなたがたは地の塩である。……あなたがたは世の光である」(マタイ5・13、14)。イエスがこのことばを語りかけた人々のことを考えるなら、これはわたしたちをすこし驚かせます。弟子たちはどのような人々だったでしょうか。彼らは漁師で、素朴な人々でした。……しかしイエスは神の目をもって彼らをご覧になります。そしてイエスのことばを真福八端から導かれる結果として理解しなければなりません。イエスがいおうとされるのはこれです。心が貧しく、柔和であり、心が清く、あわれみ深いなら、……あなたがたは地の塩、世の光となるのだと。

 このイメージをもっとよく理解するために、ユダヤ教の律法が、契約のしるしとして、すこしの塩を神への献げ物にかけるように定めていることを思い起こしてください。さらに光は、イスラエルにとって、メシアが現れて異教の闇に打ち勝つことの象徴です。それゆえ、新しいイスラエルであるキリスト者は、すべての人に対する使命を受けました。キリスト者は、信仰と愛をもって、人類を方向づけ、聖化し、豊かにすることができるのです。わたしたち洗礼を受けた者は皆、宣教する弟子であり、世にあって生きた福音となるよう招かれています。塩と同様に、わたしたちは聖なる生活によってさまざまな場に「味」を与え、それらを腐敗から守ります。またわたしたちは、真実な愛のあかしによって、キリストの光をもたらします。しかし、もしわたしたちキリスト者が味を失い、塩と光としての存在を消してしまうなら、わたしたちは力を失います。しかし、世に光を与えるという、この使命はすばらしいものです。わたしたちはこの使命を帯びているのです。それはすばらしい使命です。イエスから与えられた光を守ること、保護することも、とてもすばらしいことです。キリスト者は輝く人とならなければなりません。光をもたらす人、それもつねに光をもたらす人とならなければなりません。この光は自分のものではなく、神のたまものです。イエスのたまものです。わたしたちはこの光をもたらすのです。キリスト者がこの光を消してしまえば、生活は意味を失います。名前だけのキリスト者となり、光をもたらすことなく、生活にも意味がなくなります。ところで、今わたしは皆様に尋ねたいと思います。皆様はどのように生きたいですか。火をともしたともし火のように生きたいですか。それとも、消えたともし火のように生きたいですか。ともし火に火をともしていますか、それとも消していますか。どのように生きたいですか。ともし火には火がともされています。神がこの光を与えてくださり、わたしたちはそれを互いに与え合うのです。ともし火に火をともすこと。これこそがキリスト者の召命です。

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