教皇フランシスコの2014年2月12日の一般謁見演説:聖体の秘跡②

2月12日(水)午前10時15分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、1月8日から開始した「秘跡」に関する連続講話の5回目として、前回に続いて「聖体の秘跡」について解説しました。以下はその全訳です。

親愛なる兄弟姉妹の皆様、おはようございます。

 前回の講話で、聖体がわたしたちをイエスとその神秘との現実の交わりへと導き入れてくれることを明らかにしました。ここでわたしたちは、わたしたちが祝う聖体と、教会としてまた一人ひとりのキリスト信者としてのわたしたちの生活との関係について自問することができます。わたしたちは聖体をどのように生きているでしょうか。主日のミサに行くとき、わたしたちは聖体をどのように生きているでしょうか。それは単なる祝いのとき、固定した伝統、人々と会い、居心地のよさを感じるための機会でしょうか。それとも、それ以上のものでしょうか。

 わたしたちがこれらすべてのことを、すなわち聖体をどのように生きているかが分かるための具体的なしるしがあります。それは、わたしたちが聖体をよく生きているか、それほどよく生きていないかを示すしるしです。第一のしるしは、わたしたちの他の人に対する見方、考え方です。聖体においてキリストは、十字架上で行った自己奉献をつねに新たに行います。キリストの生涯全体は、愛ゆえにご自分を完全に分け与えるわざです。だからキリストは、弟子やご自分が会うことのできた人々とともにいることを愛しました。それはキリストにとって、人々の望み、問題、彼らの心と生活を揺さぶるものを共有することを意味しました。さて、わたしたちも、ミサにあずかるとき、あらゆる種類の人々と出会います。若者、高齢者、子ども、貧しい人と裕福な人、同郷人と外国人、家族同伴の人と独りだけの人です。ところで、わたしが祝う感謝の祭儀は、すべての人を本当に兄弟姉妹として感じさせてくれるでしょうか。喜ぶ人とともに喜び、泣く人とともに泣く力を強めてくれるでしょうか。貧しい人、病気の人、除け者にされた人のところに行くようわたしを促してくれるでしょうか。彼らのうちにイエスのみ顔を見いだす助けとなるでしょうか。わたしたちがミサに行くのは、イエスを愛し、聖体においてイエスの受難と復活にあずかりたいからです。ところでわたしたちは、イエスが望まれたように、困っている兄弟姉妹を愛しているでしょうか。たとえばわたしたちは、この数日間、ローマで、多くの困難な社会状況を目にしています。それは、近隣地域全体に多くの被害をもたらした大雨、あるいは、世界全体の経済危機による雇用の不足によるものです。わたしは自問しなければなりません。わたしたちは皆、自らに問いかけなければなりません。わたしはミサに行くとき、それをどのように生きているでしょうか。わたしはこれらの問題を抱えた人々を助け、彼らに寄り添い、彼らのために祈ろうとしているでしょうか。それともわたしは少し無関心でしょうか。あるいは、うわさ話を気にしているでしょうか。あの女の人が、あの男の人が、どんな服を着ているか見ましたかといったことです。ミサの後にこのような話をすることがあります。そのようなことをすべきではありません。わたしたちは、病気や何らかの問題で困っている兄弟姉妹のことを心にかけなければなりません。今日、このローマで問題を抱えている兄弟姉妹について考えるのはよいことだと思います。これらの問題は、大雨や社会・労働問題が引き起こした悲惨な状態によるものです。わたしたちが感謝の祭儀の中で受けるイエスに願おうではありませんか。彼らを助けることができるように、わたしたちをお助けくださいと。

 第二の、きわめて重要なしるしは、自分がゆるされたと感じる恵み、また、進んでゆるそうとする恵みです。時にこう尋ねる人がいます。「なぜわたしたちは教会に行かなければならないのですか。ミサに習慣的にあずかる人も、他の人と同じ罪人ではないでしょうか」。わたしたちは何度このような質問を耳にすることでしょうか。実際には、感謝の祭儀を祝う人は、自分が他の人よりよい人間だと思うからでも、そのように思われたいからでもありません。むしろ、自分が受け入れられ、イエス・キリストにおいて肉となった神のあわれみによって新たに生まれ変わらなければならないことをつねに知っているからです。わたしたちがおのおの、神のあわれみを必要としていることを感じず、自分は罪人だと思わなければ、ミサに行かないほうがよいでしょう。わたしたちがミサに行くのは、自分が罪人だからです。そして、神のゆるしを受け、イエスのあがないとゆるしにあずかりたいからです。ミサの初めに唱える「わたしは……告白します」は、単なる「形式」ではなく、まことの悔い改めの行為です。わたしは罪人であり、そのことを告白します。こうしてミサは始まるのです。イエスの最後の晩餐は「引き渡される夜」(一コリント11・23)に行われたことを忘れてはなりません。わたしたちがパンとぶどう酒をささげ、このパンとぶどう酒を囲んで集まるたびごとに、わたしたちの罪のゆるしのためのキリストのからだと血が新たにささげられるのです。わたしたちは罪人としてへりくだってミサに行かなければなりません。そうすれば、主はわたしたちをゆるしてくださいます。これこそが、主イエスのいけにえの深い意味の最高の要約です。そしてこのいけにえは、わたしたちの心を、兄弟をゆるし、和解することへと開いてくれるのです。

 最後の貴重なしるしは、感謝の祭儀と、わたしたちのキリスト教的共同体としての生活の関係から示されます。感謝の祭儀はわたしたちが行うものではないことをつねに心に留めなければなりません。それは、わたしたちがイエスのことばとわざを記念することではありません。そうではありません。むしろそれはまさにキリストのわざなのです。感謝の祭儀の中で働くかた、祭壇上におられるかたは、キリストです。感謝の祭儀はキリストの与えるたまものです。キリストが、ご自分を現存させ、ご自分の周りにわたしたちを集め、ご自分のことばといのちでわたしたちを養ってくださるのです。それは次のことを意味します。教会の宣教と本質は、この感謝の祭儀から流れ出、また、つねにそこにおいて形をとります。感謝の祭儀は、外的に見て非の打ちどころのない、完璧なものとなる場合もあるかもしれません。しかし、もしそれがわたしたちをイエス・キリストとの出会いへと導かないなら、わたしたちの心と生活に糧を与えないものとなる恐れがあります。これに対して、キリストは、感謝の祭儀を通して、わたしたちの生活の中に歩み入り、ご自分の恵みで満たそうとなさいます。こうしてすべてのキリスト教的共同体において、典礼と生活が一貫性をもつようになるのです。

 わたしたちの心は、福音で語られるイエスのことばを思って、信頼と希望で満たされます。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ6・54)。信仰と、祈りと、ゆるしと、悔い改めと、共同体の喜びと、貧しい人々、多くの兄弟姉妹の必要に対する気遣いの精神をもって、聖体を生きようではありませんか。主は、永遠のいのちという、約束したことをかなえてくださるという確信をもって。アーメン。

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