教皇フランシスコの2014年2月19日の一般謁見演説:ゆるしの秘跡

2月19日(水)午前10時15分から、サンピエトロ広場で、教皇フランシスコの一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、1月8日から開始した「秘跡」に関する連続講話の6回目として、「ゆるしの秘跡」について解説しました。以下はその全訳です。
謁見の終わりに、教皇はウクライナの平和を求めて呼びかけを行いました。

親愛なる兄弟姉妹の皆様、おはようございます。

 洗礼、堅信、聖体というキリスト教入信の秘跡により、人はキリストにおける新しいいのちを与えられます。皆様がご存じのとおり、今わたしたちはこのいのちを「土の器に」(二コリント4・7)納めています。わたしたちは罪のゆえに依然として誘惑と苦しみと死に服しています。ですからわたしたちは、新しいいのちを失うこともありえます。そのため主イエスは、教会が、とくにゆるし(和解)の秘跡と病者の塗油の秘跡を通して、教会の成員に対してもご自分の救いのわざを続けることをお望みになりました。この二つの秘跡は「いやしの秘跡」という名のもとにまとめることができます。ゆるしの秘跡はいやしの秘跡です。告白に行くのは、自分をいやしていただくためです。魂と心と、何であれ犯したよくないことをいやしていただくためです。このこととの深いつながりをもっともよく表す聖書のイメージは、中風の人がゆるされ、いやされることに関する箇所です。この箇所で主イエスは、同時に魂とからだの医師としてご自身を現します(マルコ2・1-12、マタイ9・1-8、ルカ5・17-26参照)。

 1 ゆるしと和解の秘跡は過越の神秘から直接、流れ出ます。実際、復活したその晩、主は二階の広間に閉じこもっていた弟子たちに現れ、「あなたがたに平和があるように」とあいさつした後、彼らに息を吹きかけていわれました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたがゆるせば、その罪はゆるされる」(ヨハネ20・21-23)。この箇所は、ゆるしの秘跡に含まれたもっとも深いダイナミズムをわたしたちに示してくれます。第一に、わたしたちの罪のゆるしは、決してわたしたちが自分で与えることのできるものではありません。「わたしはわたしの罪をゆるします」ということはできません。ゆるしはわたしたちが願うものです。他の人に願うものです。そして、ゆるしの秘跡において、わたしたちはイエスにゆるしを願います。ゆるしはわたしたちの努力がもたらす結果ではなく、贈り物です。聖霊のたまものです。聖霊はわたしたちを、十字架につけられて復活したキリストの開かれた心から絶えず湧き出る、あわれみと恵みの清めの水で満たします。第二に、ゆるしの秘跡は次のことを思い起こさせてくれます。わたしたちは、主イエスのうちに御父と、また兄弟と和解させていただくことによって初めて、真の意味で平安を覚えることができます。わたしたちは皆、心の重荷とある種の悲しみをもって告白に行くときに、このことを心のうちで感じます。そして、イエスのゆるしを与えられるとき、わたしたちは平安を覚えます。イエスだけが与えることのできる、あのすばらしい心の平和をもって。

 2 時代とともに、ゆるしの秘跡の執行は、公的な形式から――初め、ゆるしの秘跡は公的に行われたからです――個人的な形式へと、すなわち、告白に限られた形式へと移行しました。しかし、だからといって、その生きた背景をなす教会的な枠組みが失われたわけではありません。実際、まさにキリスト教共同体のうちに聖霊が現存します。聖霊は神の愛によって人々の心を新たにし、すべての兄弟をキリスト・イエスのうちに一つにします。だから、自分の思いと心のうちで主にゆるしを願うだけでは不十分であって、自分の罪を謙遜と信頼をもって教会の役務者に告白することが必要なのです。ゆるしの秘跡の執行において、司祭は神の代理者であるだけでなく、共同体全体を代表します。共同体は、自らのすべての成員の弱さを自覚し、その痛悔を聞いて心を揺さぶられ、その人と和解し、回心と人間的・キリスト教的成長の道を歩む人を力づけ、同伴します。「わたしは神だけに告白します」という人がいるかもしれません。確かにあなたは神に向かって「わたしをおゆるしください」ということができます。あなたの罪を述べることができます。しかし、わたしたちの罪は、兄弟と教会に対する罪でもあります。だから、司祭を通して、教会と兄弟にゆるしを願わなければならないのです。「でも神父様、それは恥ずかしいことです……」。恥じるのもよいことです。多少恥ずかしく思うことは健全です。恥を覚えることは健全なことです。だれかに羞恥心がないとき、そのような人をわたしの母国では「恥知らず(sin verguenza)」と呼びます。ところで、羞恥心もよい結果をもたらします。それはわたしたちを謙虚にするからです。司祭は愛と優しさをもって告白を聞き、神のみ名によってゆるします。人間的な観点から見ても、気持ちを吐き出すために、兄弟と話すこと、心の重荷になっていることを司祭に話すのはよいことです。すると人は、教会また兄弟とともに、神に心を打ち明けていると感じます。告白を恐れてはなりません。人は告白の列に並ぶとき、恐れや、場合によって恥ずかしさを感じます。しかし、告白が終わると、自由で、すばらしく、ゆるされ、真っ白で、幸福な状態で出てくることになるのです。これが告白のすばらしさです。皆様にお尋ねしたいと思います。でも、一人ひとり声に出さずに、心の中で答えてください。最後に告白をしたのはいつですか。一人ひとり、考えてみてください。……二日前、二週間前、二年前、二十年前、四十年前でしょうか。一人ひとり、数えてください。自問してください。最後に告白をしたのはいつだっただろうか。長い時間が経っていたなら、明日を待たずに、告白に行ってください。司祭はいくつしみに満ちています。そしてイエスがそこにおられます。イエスは司祭よりもいつくしみ深いかたです。イエスはあなたを受け入れてくださいます。深い愛をもって受け入れてくださいます。勇気をもって告白に行ってください。

 3 親愛なる友人の皆様。ゆるしの秘跡にあずかるとは、温かい抱擁に包まれることです。それは御父の限りないあわれみの抱擁です。財産を手にして家を出た息子についてのすばらしいたとえ話を思い起こしてください。彼は全財産を使い果たし、無一文になると、息子としてではなく、しもべとして家に帰ろうと決意しました。彼は心のうちで多くの過ちを犯したと感じ、恥じ入りました。驚くべきことに、彼が話し、ゆるしを求め始めるやいなや、父親はそれをさえぎって彼を抱き、接吻し、祝います。しかしわたしは皆様に申し上げます。わたしたちが告白するたびに、神はわたしたちを抱き、祝ってくださるのです。このような道を歩んでいこうではありませんか。神が皆様を祝福してくださいますように。


謁見の終わりに、教皇はウクライナの平和を求めてイタリア語で次の呼びかけを行いました。

「ここ数日、キエフで起きていることを懸念をもって見守っています。ウクライナ国民に寄り添うことを約束するとともに、暴力の犠牲者、そのご家族、けがをした人々のために祈ります。すべての当事者が、あらゆる暴力行為を中止し、国家の和解と平和を追求するよう招きます」。
ウクライナでは18日未明から首都キエフで反政権デモと警官隊が衝突し、同国保健省によれば、デモ隊、警察、新聞記者など合わせて26人が死亡しています。

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